Episode1 Episode2 Episode3 Episode4
Episode5 Episode6 Episode7 Episode8
Episode9 Episode10 Episode11 Episode12
Episode13 Episode14 Episode15 Episode16


↑この作品を気に入った方はクリックしてくださるとうれしいです↑


 日が傾いて、辺りが夕焼けに包まれた頃、ようやく荷物の整理がついて、津田は帰る時間が来た。
「あ、そうだ忘れてた。ハイこれ、お土産」
 津田は玄関先で靴を履きながら、砂那に殺虫剤を差し出した。砂那は意味がわからない。
「何これ? 何で殺虫剤?」
「おー、うちの部屋掃除する時は必需品なの。もぉすっげぇの。黒いのが。冷蔵庫とかどかすと小さいのとか大きいのとかが十戒の割れる海のようにこう……」
「……うぇ。やめてよもう。普段から掃除してないからだぞ」
 津田は謳うように大仰な手振りをつけて
「掃除よか今は勉強の時代なんだよ。掃除上手くても金持ちにはなれねぇ。でも勉強して点数取ればそれだけ金持ちに近づく」
「部屋がゴキブリだらけの金持ちになる気?」
「ばーか、金持ちは皆、ハウスキーパー雇うんだよ」
「何がハウスキーパーさ……」
「それくらいちょちょいと雇えるようになるんだよ。お前も勉強すれば会計くらいにはしてやるぜ。警備員はそうだな……あの爺さんにしようぜ、ほら、よく帝都駅でいたずらした時に追いかけてきやがった――」
「えぇと……あぁ、大陸爺ちゃん?」
「そうそう! 大陸じいちゃん大陸じいちゃん!」
 津田は腹を抱えてけらけら笑った。大陸じいちゃんとは近くにある帝都駅の警備担当主任で、濁流のように人がいる駅構内ではしゃぎまわって遊ぶ子供を、その中国の仙人のような容姿に似合わない俊敏な脚力で追い掛け回し、つかまったが最後「ワシが大陸におった頃はな……」と日が暮れるまで説教らしき昔話を聞かされるのだ。子供の頃の砂那達は大陸自体知らないので、下手に怒鳴られるより苦痛だった。
「ありゃ絶対昔話したいだけだったよな」
「うんうん、ていうか、僕らも捕まるかもしれないのにいつもあそこ行ってたよなぁ」
「じいちゃんとの本気の追いかけっこがスリリングで最高だったんじゃねぇか」
「まぁね。……もうやめちゃったかな」
「つか、死んでるだろ、もう……」
「…………」
 玄関先に微妙な空気が漂った。帰ってこない楽しみというのは酷だ。
 津田が空気を変えるように
「……ま、なんでもいいけど、向こうに行く時は連絡よこせよ」
「うん、わかった」
「んじゃ」
 津田はドアを開けて、出て行った。砂那はぼんやりと、閉まったドアを見ていた。なんとなしに、思う。
「あのじいちゃん、いつ死んだのかな……津田」


 外に出た津田は、いまだきっちりと足が収まっていない靴のかかとを指で引っ掛けながら、背の低い門を開けて、敷地の外に向かった。
「あ――ども」
 その時、一人の女とすれ違った。スーツ姿で、艶やかな黒髪を肩まで伸ばした、色白の女だ。ロウで固めたような無表情顔が、すれ違う瞬間、津田の目を捉えた。鉱物のような魅力的な光を湛えた――しかし無機質な瞳。
「(わーぉ、いい女)」
 津田は内心ひとりごちた。
 女は津田の不躾な挨拶に、小さく会釈をして返した。そのまま、玄関へ向かう。津田は反対方向へ歩み、家の前を真横に横切る道路に出て、右に折れた。
「(……でもなぁ)」
 それとなしに、思う。
「(今、俺の事バカにしやがったよな……あの女)」
 色濃くなったオレンジの道を、小さく「むっかつくぜー」と呟きながら、家路に向かう。
 
 
 今日は客の多い日だ。タマコ、津田に続いて、遂に知らない女まで家に上がってきてしまった。
 砂那はやかんで沸かしたお湯を、荷物の中から引っ張り出したティーポットに注ぎ、紅茶を作った。ソーサーに乗せたカップに注ぐ。
「……ふぅ」
 小さく、ため息をついた。気が重い。紅茶を沸かしたのはもちろん趣味でも教養でもなく、問題を先送りにする、実に姑息な時間稼ぎだ。
 意を決して、リビングに向かう。
「あの……どうぞ」
「あ、お構いなく……って言っても、もう遅いよね」
 ダンボールの山を強引にどかして作った空間に置いたリビングテーブルで、何かのファイルを広げていた客人の彼女は、小さく微笑んで返した。
「ごめんね、ありがとう」
「それで……あの、父さんは……」
 砂那がおずおずと尋ねると、彼女は紅茶を一口すすりながら、砂那を見上げた。
 津田と入れ替わりに現れた彼女は、自らを「高木一警部の相棒なんです」と名乗った。砂那の苗字は高木であり、つまりは高木一とは砂那の父親だ。彼女から「自己紹介代わりに」と渡された名刺には、こう書かれていた。
 
  警視庁本隊警備部警備課調査室四課
 鳴海カナ
  
「お父さんの仕事については何て聞いてた? 警察官とか?」
 問われて、砂那は一瞬返答に詰まった。思わず、「え?」と問い返してしまう。鳴海は改めていう必要はないと判断したのか、小首を傾げて返す。
 聞いたことないわけではなかったが、それはなかなか、他人に話すにははばかれた。
「あの、あぁの、それ、は……」
「それは?」
 答えに窮した砂那を、鳴海はニコニコと追い詰めた。その笑顔は、砂那から「嘘をつく」という選択肢を奪った。言いたくない。実にばかばかしい答えだ。ばかばかしい答えだが、しかし、言うしかなかった。
「そ、それは……の、……ろーだって」
「え?」
「あぁの、だから……正義の、ヒーローだって……」
 案の定、鳴海はきょとんと表情を緩めた。砂那は自分の頬が熱くなるのを感じた。バカだと思われたかもしれない。
「そう……ふふ、子供の頃聞いたきりなのかな」
 鳴海は小さく笑った。砂那は身をちぢ込める。
「お父さんはね、公安にいたの。正確には沖縄四課の本庁移りで、『桜』っていう組織だったんだけど……そこでお父さんはある任務で人を……人を、追っていてね、だけど途中で消息がわからなくなったの」
 物騒な話だった。が、砂那は別段取り乱すこともなかった。砂那は父親にそれ程、父親としての思い入れがあったわけではなかった。複雑な関係だったのだ。少し。
「でもね、危ない相手を追ってたわけじゃないから、大丈夫だと思うの。うちの職員も全力で探してるし……ただ、私も相棒だったし、責任感じててね。それで、砂那君の事思い出したの」
「僕?」
 鳴海はうなずき、クスクスと笑った。
「『英才教育を施した息子が一人いる』って言ってて――これって本当? 文字の読み方は教えてないけど、表情の読み方は教えてあるとか、自信満々に話してたけど」
「…………」
「正義のヒーローになる訓練をしてたって」
 本当である。砂那の父親はどこで手に入れたか知れない――成美の話を聞く限り、それは仕事場からのようだが――不正規な技術を砂那に教え込んでいた。英雄願望があった当時の砂那はまったくそれを不思議に思う事無く吸収していたが、今考えると、とんでもない事を教えられていたなと思う。あまり良い思い出ではない。
 鳴海は砂那が答えないと踏んだのか、一度紅茶をすすると、空気を変えるように尋ねた。
「引っ越すのって、親戚の家だよね」
「え? あ、はい……父方の、おじさんの家に」
「親戚中に嫌われてるって、高木さんは言ってたけど」
 砂那は閉口する。確かに、驚くほど嫌われている。昔一度だけ顔を出した正月の集まりでは、集まった親戚全員に白い目で見られていた。タマコの両親が砂那の引き取り手を捜していた時も、そうとう嫌味を言われたらしい。タマコが漏らしていた。
 うろんうろん、と暗い思考の渦に飲まれている砂那を、口角を悪戯っぽく僅かに上げた鳴海が、覗き込むように見た。
「ね、砂那君。アメリカ行かない?」
「――は、アメリカ?」
 唐突な言葉に、砂那はぎょっとして彼女を見た。鳴海はニコニコしながら
「責任感じてるって、言ったよね? 砂那君がよければだけど、お父さんがいない間の面倒は私がみようかなって思ってるの」
「え、ええ? でも、アメリカって……」
「いいよーアメリカ。スケール大きいしね。私アメリカ国籍持ってるから、留学生ってことにしてさ、来てみない? 嫌われてる親戚の所に行くよりは良いと思うけど」
「あの、でも」
「課長はあんまりのめり込むなって言うけどね、その話思い出したらほっとけなくないって言うか――もちろん、砂那君がよければだけどね。新しい生活、してみたくない?」
 新しい生活。頭の中で誰かが反応し、それを待ち望んでいた! と、立ち上がった。
「あ、別に急ぐ話でもないんだ。せっかくだから、夏休みの間に考えておいてもらいたいなって思って。私も仕事がまだ残ってるし」
 鳴海は肩をすくめた。砂那は思案する。アメリカ……新しい生活……突然の申し出で混乱しているが、それでも悪い話のように感じなかった。確かに、嫌味な親戚の下に行くよりかは、二十倍くらいマシな話だと思う。
 再び悩み始めた砂那の前で、鳴海は唐突に「あ」と口元に手をやった。
「そうだ、忘れてた。これが一番重要だったんだ――砂那君、お父さんから何か預かったり、渡されたりしてない?」
「何か……?」
 一瞬思案してみる。父親から預けられた物などこの家くらいしか思いつかない。
「何かって……何ですか?」
「うーん、見ればそれとすぐにわかると思うんだけどね。見た事ないなら良いんだけど」
「……さぁ、あんまり喋らなかったし」
 それに見ればそれとすぐにわかる物、というのが想像つかない。
「そう……。あ、お父さんね、ちょっと大事なもの持ち出しちゃってたんだ。それが見つからないと、アメリカどころじゃなくて」
 はふー、と鳴海は憂鬱そうに肘を突いて、手の上に顎を乗せた。あさっての方向に目をやる。
「そのせいでここに来るのも遅れちゃった。今日も明日も明後日も、残業だよ――砂那君も心当たりがあったら連絡してね。さっきの名刺に、電話番号書いてあるから」
 砂那は名刺を取り出してみてみた。確かに、携帯の番号が書かれている。砂那は「……はい」と返した。
「それじゃあそろそろ、お暇するね。ふふ、実は仕事中だったんだ、これでも」
 紅茶を最後まで飲みきると、彼女は立ち上がった。砂那も慌てて、立ち上がる。彼女が玄関に向かい、それについていった。
「引越しは明後日だったっけ?」
 鳴海はハイヒールをつっかけながら、尋ねる。砂那は頷いて返した。
「今度また、時間かけてゆっくり話そう? 会える日ってあるかな? 明日は?」
「あ……明日は、業者が大方の荷物を持って行ってくれるんですけど……」
「じゃあちゃんとした夕飯は食べられないね。一緒にご飯どう?」
 まるで促されるように、砂那は何も考えずに頷いて返してしまう。彼女のテンポは心地よく、なんでも素直に答えてしまいたくなる。
「そう。よかった、男の人ご飯に誘うのって初めて」
 彼女はそう悪戯っぽく笑うと、「それじゃね。また明日」とドアを開けて、出て行った。外はすっかり日が暮れて、街頭の光が眩しい位だった。白い光に羽虫が集まり、ぱたぱたと音を立てている。
 砂那はぺこりとお辞儀をして、彼女を見送った。ドアが閉じて、家の中に静寂が戻る。耳に痛いほどの静けさが、暗い通路の奥から、漂ってきていた。
「……アメリカ」
 甘美な響が耳に残っていた。この話を津田にしたらどうだろうか。拳を振るって羨ましがるだろうか、そりゃすごいと喜ぶだろうか――いずれにせよ、悪い顔はしないと思う。
 タマコはどうだろうか――いや、今の彼女なら何でも反対しそうだ。黙って睨みつけた後、「……好きにすれば」とでも言ってどこかに行ってしまうかもしれない。
 それでも、行ってみたい。
 ――かもしれない。
 これは人生の転機、というやつだ。人生なんてまださっぱりわからないが、きっとそんな気がする。
 全部ほっぽり出して、凄く遠い、全然別の場所で生きるのだ。考えるだけで、わくわくしてくる。
「アメリカ、かぁ」
 自然と口角が持ち上がっていた。リビングに戻って、その話を一考してみようと思う。
 ふと、その時ポケットから電話が鳴った。
 砂那は慌てて、デニムのポケットに手を突っ込む。しかし慌てて取り出したものだから、ぽろりと落ちて、床を転がってしまった。運の悪い事に、ばらばらと積み上げられたダンボールの間に入り込んでしまう。
「うわっ、まず」
 慌ててしゃがんで、隙間に手を突っ込む。が、微妙に届かない。電話はまだ鳴っているが、このままでは切れてしまうだろう。誰が相手か知らないが、砂那の知り合いはあまり気の長い人間がいない――タマコ然り、津田然り――すぐに出なかったら、後で何を言われるかわかったものじゃない。
 焦った砂那の目に、靴べらが映った。天の助けとばかりに手を伸ばし、それを使って、再び隙間に手を伸ばす。
「――――っ、届いた!」
 ダンボールが崩れた
 
 どかだかばかどかいでてぼこだかどかどかどか――――ぐぇ
 
 最後に一番高いところにあったダンボールが、埋もれた砂那の背中にダイブして、その大崩壊は止まった。砂那がぴくぴくと痙攣していても、携帯は元気に彼を呼び続けた。
「う――誰も見ていないのが余計に……」
 緩慢な動きで、のっそりと砂那は身体を起こす。彼の背で、「割れ物注意!」と書かれたダンボールが転がって、ぐわしゃがしゃがしゃ、とあまり中身を見たくない音を立てた。
 盛大にため息をつく。気落ちしながら、携帯の通話ボタンをした。
「……はい、砂那ですけど」


『「あなたのお父さんは宇宙人にさらわれた」――って言ったら、信じる?』


 挨拶もなかった。名前も名乗りもしなかった。ただ、静かで淡々とした、女の――鳴海カナの声が、耳に静かに、突き刺さった。
 とっさに何も言えなかった。それは冗談ではなかったから。冗談にしては、面白みにも、ユーモアのある話し方にも欠けていた。平坦な――まるで『相手を試すかのような』、静か過ぎる言葉の羅列だった。
 ハッとして、砂那はドアを見た。つっかけも履かずに、外に飛び出す。
 夏の夜の、独特な静けさに包まれていた。家の前の道路に飛び出しても、それは変わらなかった。ただ、玄関を照らす白い照明に、変わらずに飛び続ける羽虫の、小さな羽ばたきだけが、耳に残った。
 出て行ってから、一分も経っていないのに。
 自然と、喉を鳴らしていた。生ぬるい空気を、意識して肺に飲み込んで、呟く。

「……どういう、意味ですか」