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「あの女、すごく嫌な気がする! すごく、すごく嫌だ!」
 辺りを走り回ってようやく駅構内にたどり着いた二人だったが、その息はすっかり上がっていて、額も体も汗びっしょりだった。
「僕も嫌な予感がする! きっと地球人も宇宙人も敵に回した嫌な奴なんだろ!」
 行き交う沢山の人と人の間をすり抜け、二人は駆ける。平日の昼間、駅構内は活気溢れている。スーツ姿の大人が携帯片手に忙しそうに歩き、私服姿の女の子達がはしゃいでいて、旅行に向かうらしきアロハ姿の家族連れが楽しげに改札をくぐっていく。その間を、二人は駆ける。
 ここに来るまでに巻いたとはいえ、さっきまでの鳴海カナの追跡は尋常ではなかった。逃げても逃げても、車と徒歩で挟み撃ちをしてくるのだ。急がなくては、すぐにここにも手を回されるだろう。
 不意に、砂那の背中を彼女が叩いた。
「お前、何ですぐに助けてくれなかったんだ!?」
 沙那は嫌そうに目を細める。
「だって……みんないまいち信用できないし……鳴海カナも、父さんも……一番信用できないのは宇宙人だけど」
「信用できないのはお前の方だ! このバカ! 薄情者! 無責任!」
「うるさいなぁ、助けたんだからいいだろ」
「よくない! 勝手に助けて勝手に殴って記憶まで奪ったんだ、最後まで面倒を見ろ!」
「それは父さんがした事だろ!?」
「親の咎は息子の咎だ! 血の責務を負え、貧民め! ――あ、それから」
 沙那は辟易して、
「まだあるの?」
「いくらでもある! 私の事はこれから、アーニャと呼べ。あの名前、発音しやすいし、気に入った」
 なんでそんなに偉そうなんだよ、と沙那は呆れる。
「わかったよ『アーニャ』」
「それで、どういう意味だ?」
「何が?」
「名前の意味だ」
「意味なんて無い……あ、いや」
 言われてみて初めて気がついた。適当に言ったと思っていたが、そうではない。
「たしか……女王様の名前。仮名だけど。昔の映画であったんだ、そういうの」
 鳴海に追い詰められて、とっさに思い出したらしい。大して思い入れがある映画ではなかったが、観ていたおかげで助かった。
「えいが? ふむ、なんだかよくわからないが、高貴な者の名なのだな? 私は女王ではなく姫だが、貴族というのならぴったりだ」
「まぁ……確かにぴったりかな」
 確か、映画の中の女王も街に逃げ出してきていた。もっとも映画の方はもう少し庶民に好意的だったが。
「ふん、ところでクレープはどこだ?」
 沙那は走りながらぎょとして彼女を見た。
「今更何言ってるの――もうちょっと緊張感持ってよ!」
「な、なんだと!? 食べられないのか? だったら何のためにここに来たんだ!?」
「だからそれは――あ、あそこ!」
 砂那は携帯端末片手に通路の端を指差した。
 端末の地図を拡大していくと、赤い点はちょうどその辺りになったのだ。そこには大小さまざまなロッカーが一組になった、いわゆる『百円ロッカー』が置いてあった。この駅には地方からの旅行者も多いので、こういった荷物置き場は駅のそこらかしこに設置されている。これもそのうちの一つだ。
「えぇと……?」
 しかし考えてみれば、ロッカーは縦横に五十台以上も設置されていて、それに鍵もかかっている。何かが入っていたとしても、これでは見つけようがない。
 アーニャが砂那の手を引いて怒った。
「どうしたんだ? もーぅ、急がないと奴らが来てしまうぞっ」
 アーニャが砂那の手を引いて怒った。砂那は「ちょっと待って、今考えてるから」と振り返り、ハッとした。
「ん? なんだ?」
 沙那はアーニャの手を取ってその手首で揺れている鍵を手に取った。
「おい、どうするつもりだ?」
「鍵を開けるんだ」
「くれーぷが入ってるのか?」
「……さぁ、開けてみないとね」
 彼女の手首を持ち上げ、421番の鍵穴に差し込む。
 ひねる必要はなかった。次の瞬間勢いよく鍵穴から光があふれた。
 視界が明るい青と黄緑、赤のまばゆい閃光に包まれ、思わず手で目を覆った。しかし光は、その手を透けて、沙那の目を照らし出す。
「(なんだこれ――)」
 そう思った時だった。唐突に光が消え、雑踏が耳に舞い戻ってきた。海の底から一気に海面に顔を出したかのような感覚。
 周囲を見渡す。誰しもが当たり前のように忙しそうに自分の道を行く。
「(……僕にしか見えなかったのか?)」
 視線をロッカーに戻す。普通のロッカーが、普通に口を開けているだけだった。光を発するような物は何も無い。
 ただ、黒いゴムの固まりのような物が中にあるだけだ。
「これが赤い点の……?」
 手を伸ばす。
「おい沙那! お前にもやろう、おいしいぞ!」
 唐突に傍らから声がかけられた。沙那が目をやると、そこにはクレープにぱくつきながら、手にしたもう一つのクレープを差し出すアーニャがいた。
「アーニャ……ん、クレープ?」
「お巡りさん! あれあれ、あの娘!」
 若い男の声が遠くから聞こえて来た。おいおいまさか……と嫌な予感と共に視線をあげると、エプロン姿の男が二人の警官を背にして、こちらを指さしていた。
「あぁもう食べてる! お金もらってないのに!」
 二人の警官の内、若くて眼鏡をかけた方の警官が「わかりましたわかりました、任せてください」とエプロン姿の男をなだめ、もう一人の三十代くらいの警官がこちらに向かって来て、声をかけた。沙那達を子供と見たのか、優しい口調で言う。
「君達そこから動くなよ。話を聞くだけだ」
 沙那はため息をついて額に手をやった。これだけ見せられれば、一体アーニャが何をやらかしたのかは明白だった。
「アーニャ! 何してるんだ!?」
「む? クレープを食べているんだ」
「そうじゃなくて、お金は……」
「お金? なんだ、こんなちまちました物にも通貨が必要なのか?」
「あぁもう話がかみ合わない……って、うわっ!」
 沙那の視界がとんでもない映像を捕らえた。、警官のさらに奥には、駅前の交差点が見える。そこに黒塗りの乗用車が、無茶な運転で突っ込んできていた。交差点のど真ん中にもかかわらず急停止すると、運転席から乱暴に女が、助手席から慌てて男が、飛び出して来る。
「うわっまずい……! アーニャこっち!」
 沙那はアーニャの手を引いて駆けだした。
「むわっ、なんだ!? おい、くれーぷが落ちる!」
「あぁ!? ――テメ待てゴラァッ!」
 アーニャが悲鳴を上げ、向かって来ていた警官が怒声をあげる。周囲の人々がいぶかしげに振り返り、その前を沙那が強引に突っ走って通り抜ける。
「何でそういう余計な事するの!?」
「私が何をしたって言うんだ? クレープを食べに来たからクレープを食べただけだ!」
「それが余計な事なんだよ!」
「このクソガキぁ! 止まれオラァ!!」
 警官の怒声を背に受けながら、沙那はちょうど扉が開いた近くのエレベーターに、強引に乗り込んだ。並んで待っていた客達が口々に文句と罵声を浴びせる中、沙那は『閉』ボタンを連打する。
 
「あぁ! ちきしょう! クソッ!」
 追いついた警官は閉じたエレベータの扉を拳で殴りつける。遅れて追いついてきた若い眼鏡の警官が息を荒くして
「に、逃げられ、逃げられたんですか……」
 扉を殴りつけた警官は激昂して振り返る。
「てめぇが鈍くさいからだぞこの牛が! 会計課上がりがお回りなんぞするからこうなるんだこの馬鹿!」
 眼鏡の警官は至極困り切った顔で
「だって毎日数字見てたら胃がきりきりするんですもん……同期もみんな鬱病かかっちゃってこのままだと僕もまずいかなって……」
「んなの知るかこのグズがぁぁぁ! 追うぞッ、地下だ!」
「え、でも上の方は――」
「こいつは地下鉄直通エレベーターだボケェ! 地図把握しとけっつたろうが、テメェ会計課送り返してやるから覚悟しとけよ!」
「あぁ、待ってください!」
 警官二人が駆け出し、後に残された客達が「一体何なんだ?」とばかりに顔を見合わせた。そこに今度は若い男女が駆けつけて来る。
黒のスーツを着込み、サングラスをかけた女と、癖毛の気の弱そうな男。
「――ッ、よく逃げる」
 女が唇を噛みしめながら呟く。男の方が慌てた様子で
「あの、本庁から応援を呼んだ方が……」
「『桜』はジェミニ計画を逆手にとる気なのよ。下手したら殺されちゃう――行くよ!」
「殺すって……ジェミニ計画ってなんです!? ちょっと、待ってくださいよ!」
 男女は警官の後を追い、駆け出す。
 周囲を歩いていた群衆もエレベーター前の客も、その騒動にいぶかしげに視線を向けていたが、結局何も起こらないとわかるとあっさり興味を失った。いつも通りの雑踏が戻る。エレベーター前にたむろしていた客達も平静を取り戻し、客の一人が『▼』ボタンを押す。
 エレベーターの扉が開いた。
「――だからクレープ食べるならお金払わないとダメなんだって!」
「貴様さっきはそんな事言わなかったぞ!」
「言わなくても全宇宙共通の常識だと思っててね!」
「それはバカにしてるのか!? 私をバカにしてるのか!?」
 扉が開くと同時に中から沙那とアーニャが飛び出してきた。驚いている客達の間を、言い合いしながらすり抜ける。
 警官達の裏をかいたのだ。乗り込むだけ乗り込んで降りなかった。
「あ――! 貴様最初から私にクレープを食べさせる気など無かったんだな!?」
「そんな事言ってないだろ! ――それよりロッカーが開きっぱなしだ。中身盗まれてないかな……」
「おい、聞いてるのか!?」
「うるさいくらいに聞こえてるよ! ――こっちだ!」
 沙那はアーニャの手を引いて駆け出す。周囲に目を配る。
「(鳴海カナはどこに行った? 簡単にだませる相手だとは思えないけど……?)」
 ロッカーへと、駆ける。
 
「……福田!」
 地下へ続くエスカレーターを駆け下りていた鳴海が、唐突に立ち止まった。振り返りもせずに後方の福田に声を駆ける。
 後を追うだけで精一杯だった福田は慌てて
「へ、へい――いや、はい!」
「下は警官に任せろ! 改札を通すなと伝えておけ!」
 急に口調が男っぽくなり、福田はぎょっとする。
「あの――鳴海さんはどちらに……」
 鳴海はエスカレーターの手すりに手をかけると、華麗にそれを飛び越した。隣の徒歩用階段に着地すると、スーツスカートを翻して駆け出す。福田とすれ違い様に声をかけた。
「ロッカーだ! エレベーターはフェイクだ! あの子はロッカーに向かう――あそこに高木一佐が残した何かがあるんだ!」
「はい!?」
 理解できていない福田に苛立たしげに彼女は叫ぶ。
「裏をかかれたんだよ! あの子は高木一佐の戦術理論を体得してるんだ、空気を吸うみたいに裏をかいてくるぞッ!」
 まるで風のように彼女は階段を駆けていった。無駄な動きの一切無い、まるでそれ自体が芸術作品のような走りだった。
 一方福田はばたばたとエスカレーターを駆け下りながら、「サンダーボルトか……!」と小さく毒づく。
 
 
「よかった、まだ残ってる」
 沙那は件のロッカーに入っていたゴムの固まりのような物を手に取った。広げてみる。
「……手袋?」
 それは五指の指をいれる袋のついた手袋だった。指先に当たる位置に硬質の鉄のような物がついている。
「なんだこれ」
「む、■×●*だな」
 アーニャが言った。
「何? なんだって?」
「貸してみろ、これはな……」
 アーニャは沙那の手から手袋を奪い取ると、自分の手にはめ始めた。沙那がいぶかしげにそれを眺めていると、
「お前らかいたずら坊主どもは!」
 と、離れた所から声が聞こえた。驚いて声の方に目を向けると、白髪を垂らしたおじいちゃん警備員が雑踏からつかつかと歩み寄って来るところだった。
 ものすごく、見覚えのある姿だった。沙那は思わず、ぎょっとして叫ぶ。
「た、大陸爺ちゃん!」
「たいりくじいちゃん?」
 アーにゃがいぶかしげに砂那を見上げる。砂那は「次から次へと……」と天を仰ぐ。
「まずいよ……生きてたのか。あの爺ちゃんすごく足が速いんだ」
「何、本当か? どう見てもよぼよぼでご長寿だぞ。地球人は足腰が衰えないのか?」
「やっぱり張り合いがあると年取らないのかな……」
「?」
 アーニャが首をかしげている間にも、警備員こと大陸爺ちゃんはずんずん近寄ってきて
「まったく騒ぎを聞いて飛んできてみればまぁた子供のイタズラか! 夏休みはいたずらの宿題でもでとるのか!! 毎年毎日、月月火水木金金……」
「元気だなぁ。走って逃げるか……ていうかそれしかないか」
 まさかよぼよぼで職務に忠実なおじいちゃんをぶん殴って黙らせるわけにはいかない。
「ふん、ちょうどいい、見ていろ」
 手袋をつけたアーニャが冷静に言った。人差し指で宙に四角を書くと、そこにボタンでもあるかのように何もない空間をつつく。
「ちょっと、おじいちゃんに何する気!?」
「男の癖してぶちぶちとうるさいぞ、黙ってみていろ。あいつも敵なんだろう」
「敵って……」
「これで……えい!」
 アーニャが勢いよく人差し指をふった。まるでパソコンのエンターキーを調子よく叩くかのように。
 するとつかつかと歩み寄ってきていた警備員がぎょっとして立ち止まった。目の前の何もない空間を見て、目を見開く。
「な、なんだぁ?」
 大陸爺ちゃんは目の前の空間を食い入るように見つめながら、あんぐりと口を開いた。
 何が何だかわからないで沙那が見ていると、アーニャが「ふふん」、と自慢げに鼻を鳴らした。
「お前にも見せてやろう、ほら」
 アーニャが再び何かを操作するような仕草をする。すると突然、視界に水のように透ける色をした線が浮かび上がった。ちょうど戦闘機のコクピットに表示されるレーダーのようだ。アーニャの前には四角い枠と、ボタンのような薄い光が浮かび上がっている。どうやら先ほど操作していたのはこの光らしい。
「おお? なんだ、なんだこりゃ、どうなっとる!?」
 そして警備員の前には、まるで鏡で映したかのように全く同じ格好で同じ行動をする老人の姿があった。いや、あれはまさしく大陸爺ちゃんそのものだ。
「こ、これって……」
「地球人達はこれをヴィーアールエスと呼んでいた。私の×☆●◇ではこれで状況を記録するのだ」
「ヴィーアールエス――――VRS?」
 どうだ、恐れ入ったか、とばかりにアーニャはふんぞり返る。
「すごい……けど何したの?」
「ふふん。あの老人の目をスクリーンにしてコピー映像を投影したのだ。一度私の中に取り込んだ記憶情報を基にしてな。地球で言うところのバイオデバイスという奴だ」
「いや、地球には長く住んでるけどそんなの聞いた事無いよ……パソコンみたいなものかな?」
「パソコン? それは一体――って、あぁ! 沙那、また来たぞ!」
 アーニャが叫んだ。彼女の指さす先には、駆けてくるスーツ姿の女の姿があった。サングラス越しの目をまっすぐこちらに向けて、まるで黒豹のようなしなやかな迫力で突っ込んでくる。
「しつこい女だな!」
「まずい、行こう!」
 沙那が再び、アーニャの手を取った。
 

 沙那の姿を見つけると、鳴海はさらに走るスピードを上げた。低く姿勢をとる、軍属特有の走り方だ。それも速い。対して沙那はアーニャの手を引いてるのでそれ程スピードが出ない。けっして遅くはないが、鳴海の足の速さにはとうてい及ばない。
 沙那も無理だと判断したのか、人混みの中に紛れ込んだ。群衆に擬態して振り切るつもりだ。鳴海は一瞬、その後ろ姿を見失う。
 だが彼女だってこんなやり口は今までに何十回と経験しているのだ。五秒もかからずに再びその背を見つけ出す。
 人群れから少し離れたところで、沙那はアーニャの手を離し、二手に分かれていた。攪乱する気だ。
「(思い切りが良い、決断力もある――本当に勘でやってるのか?)」
 鳴海は内心舌を巻きつつも攪乱に乗る事はない。即座に目標をアーニャに変え、スピードを落とさずに追う。携帯を取りだす。
「福田! 対象は二手に分かれた、東通路、三番出口に一人! もう一人は私が行く!」
『りょ、了解』
「必ず捕まえて! 逃がしたら一生出世できないよ!」
『ええ!? 僕キャリアなのに!?』
「官僚主義なんて現代のガンなのよ」
『ガン!? ぼ、僕が!?』
「駆逐されたくなかったらもっと速く走って!」
『く、くちくぅ!? それCIAのジョーク――』
 話の途中で電話を切る。
 その背の小ささのなせる技か、アーニャは人混みをまるでそこに何もないかのようにするするとくぐり抜けて行ってしまう。鳴海は進行方向上にある人間を、そのモデルのような肢体に似合わない暴力さでかき分けていく。道を空けないパンク風の男の顔面を肘打ちで殴り倒し、ぺちゃくちゃとおしゃべりに夢中で鳴海に気がつかないおばさん集団を両腕で思いっきりかき分ける。おばさん集団は倒れて彼女の背に罵声を浴びせるが、その頃には鳴海は数十メートルも離れている。
 アーニャは地下へと向かう階段へ向かった。フロアにぽっかりと穴が開くように作られた広い階段だ。階段の外周を回り込んで、その切れ目から階段を滑らかに駆け下りていく。
 鳴海は外周を回ったりしなかった。分厚いコンクリートでできた低い外周の柵に手をかけると、エスカレーターの時と同じく、華麗にそれを飛び越した。
 手すりから階段まで、数メートルの落差があり、しかもハイヒールで降りたのにもかかわらず、彼女は大して膝のクッションも使わずに足場の悪い階段の上に見事に着地した。胸元から拳銃を片手で引き抜くと、上から降りてきているアーニャに向けて銃を向ける。
「そこで止まれッ!」
 完全にアーニャを射界に捉えていた。
 確信に満ちた制止の声で、それは相手にも十分に伝わったはずだ。
 しかしアーニャは足を止めなかった。脇をすり抜けられると思っているのか、真っ直ぐにそのまま向かって来る。
 鳴海はその体を全身で止めにかかった。両手でしっかり、逃げられないように抱きかかえようとし、
「――な!?」
 アーニャは彼女の体をすり抜けた。感触など全くなかった。振り返ると、小さなアーニャの後ろ姿が、まるで何事もなかったかのように階段を駆け降りていく。そして突き当たりの壁に当たると、そのまま壁の中に飛び込み、消えた。
「これは――」
 鳴海ははっとして顔を上げた。
 手すりから身を乗り出すように、沙那がこちらを見下ろしていた。その手には、黒いゴム製の手袋のような物が――
「VRS!?」
 ジェミニのバイオデバイス。視覚野の共有インターフェース。
「(なんでジェミニ計画のアンコモンを……!?)」
 驚愕し、言葉を失う。その隙を突くように、沙那は手すりから離れ、鳴海の視界から消えた。慌てて階段を駆け上ってその姿を探すが、鳴海を奇異の目で見る雑踏があるだけだった。
「っ――」
 携帯を取りだし、福田を呼び出す。電話に出ると同時に
「あの子はどうした!? 確保した!?」
 福田は息を荒くしながら
『すみません……はぁ、はぁ、見失いました、近くで聞き込みしてますがこちらには来ていないみたいで……鳴海さん? 聞いてます? 鳴海さん?』
 彼女は携帯を握りしめ、奥歯を噛みしめた。


「急げ沙那!」
 見事にVRSを操って鳴海を攪乱した沙那だが、しかし余韻を楽しむような間はなかった。急いでエレベーター前に待機させていたアーニャの元に戻ると、
「またあいつらが来た!」」
 彼女は後方を指さしながら叫んでいて、見ると先ほどの警官二人が凄い形相で(特に片方の顔はヤバイ)こちらに迫って来ていた。沙那は辟易して
「いつまで追いかっけっこすればいいんだ……?」
「もーぅ、早くしろぉ!」
「これで最後にしたい……」
 沙那はエレベーターの中に彼女を引き込むと、再び閉ボタンを連打した。

 二人の少年少女が乗ったエレベーターが閉まり始めると、先ほどから怒り狂っている警官は「だぁクソッ!」と毒づいて、傍らでふらふらと走っている若い眼鏡の警官の首襟をひっつかんだ。
「テメ行って来いやぁぁぁ!!」
 思いっきりエレベーターに向けて投げつける。
「おわぁぁ!?」
 若い眼鏡の警官はふらつきながらもスピードを上げてエレベーターに向かって突っ込む。
「げほっ!?」
 その体は見事、扉の間に挟まって、エレベータが閉じるのを阻止した。
「よくやった会計!」
 後方の警官が叫んだ。
 眼鏡の警官が顔を上げると、目の前にいた背の低い、黒髪の少女が不思議そうに自分を見下ろしていた。顔に手を伸ばしてくる。
「なんだこれは?」
 彼女は扉に挟まって身動きできない彼から眼鏡を取り上げ、興味津々に眺めた。『眼鏡をかけていた』彼は慌てて手を伸ばして叫ぶ。
「あぁ! ダメ、やめて!」
 と、突然少女の横にいた少年が、少女の手から眼鏡を取り上げ、
「えいっ]
 と小さなかけ声と共に扉の向こうに投げた。若い警官は慌てて「はうあぁ!」とその眼鏡を追って振り返り、
「ばぁぁぁかぁぁぁぁぁぁ!!」
 怒り狂っている警官の怒声を一新に浴びながら、エレベーターの扉から体を解放した。
 扉はぴしゃりと閉まった。駆けて来た警官が飛びかかり、しかしタッチの差で壁にぶち当たって「ぐぼっ」と跳ね返された。
 エレベーターが動き出す音が聞こえた。上部の電光パネルに『▼3』と表示される。
 扉にぶち当たった警官が、わなわなと立ち上がった。鼻血を出しながら、ほほをピクピクと振るわせる。その横で若い警官が、床に落ちた眼鏡に傷がついていないか、必死に布で拭きながら確認していた。
 ちーん、というのんびりした音と共に、隣のもう一台のエレベーターが到着した。ぞろぞろと人が降りて来る。警官達を奇異の目で眺めていた客達が、折り返すように乗り込む。全員があらかた乗り込むと、スイッチを操作していた客が、二人を見た。
「下行きますけど。……乗ります?」
 淡々と、尋ねた。