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「沙那ー。まだ片付けて終わってないのー……うわ、昨日より汚れてる」
 家主の許可など全く取らず玄関を上がってきたのはタマコである。彼女は中学時代テニス部で使っていたジャージ姿だった。今日こそ手伝う気で来たのだ。
「沙那ー寝てるの? あのさぁ、家の前に変な車止まってるけど、あれって砂那の――――何してんの?」
 リビングに入った彼女が見たのは不自然な体制でキッチンを背にする沙那の姿だった。
「何って、何が? 別に、何も」
 邦画のB級映画並みに演技くさい態度で、彼は首をふりふりそう言った。と、その直後にガタンという大きな音が、彼の足下からした。ちょうど鍋なんかをしまう、キッチン下の収納スペースからだ。沙那の股の裏辺り、左右開きの扉ががたがたと揺れている。
「……音してるけど」
「あぁなんか、中で崩れたんだろ――それよりどうしたの今日は?」
「むぐー!」
 収納スペースからくぐもった声がした。途端、沙那は「うぇーほ、うぇーほ!」と咳のようなものをした。が、如何せんその演技くささは邦画B級映画並から素人ミュージカル並に下落していた。
「……なにやってんの? 朝っぱらから」
「だから何が? あぁそうだ、タマコその格好は今日こそ手伝ってくれるって事? ありがとう。だけどもういいよ。今日も一人でできそうだから。彼氏の所に電話して映画でも観てくればいいよ、甘ったるくてカップル以外楽しめなさそうな恋愛映画」
「もう別れたけど」
「あーそう! そうだったんだ! じゃアクション映画がいいよ。ふられてイライラした日はアクション映画で敵をばたばた倒すのを観ると最高」
 ドンッ
 と、タマコはリビングの壁を裏拳で殴りつけた。家全体が衝撃でびりびりと揺れ、沙那は沈黙する。
「……何隠してんの? そこにいるの誰?」
「誰って誰も」
 ドンッ
「猫だよ猫! 保健所に連れて行かれそうだったから昨日助けたんだ」
「猫好き。見せて」
「ごめん、やっぱり犬だったような……」
「犬はもっと好き」
「カビパラ……カビパラだった気がするかな? 凄くでっかいネズミだよ?」
「サナ! サナ! もう出せ! 暗い! ここは暗いぞ!」
 紛れもなく、収納スペースから女の声がした。それも子供、少女の声だ。タマコは目を向け、そして戻し、
「『暗いっ』て」
「暗い? 何が? 何それ?」
 タマコは目を細めて彼を見つめた。沙那はそれからスーと視線を逸らし、換気扇なんかに目を向ける。タマコは低く、呟く。
「……いい加減にしろよ」
 リビングの中にずんずんと入りこむ。「ちょっと待った、待って!」と両手を突き出して制止する沙那。しかし彼女が行動を起こした時、沙那がいくら制止しても聞かないのは保育園時代から全く変わっていない。彼女はむしろ勢い込んで沙那に向かって来る。
 その時、収納スペースの扉がドンガラガッシャンとはじけるように中から押し開かれた。
「暗いと言っただろ! どうして開けてくれなかったんだ!? イジワルは泥棒の始まりだぞ! 野蛮人め!」
 素っ裸にシーツ一枚をまとった黒髪の少女が飛び出てきて、さすがに『素っ裸』は予想外だったタマコは目を見開いて立ち止まった。
「おい聞いてるのか? おい! おーい! ん? 誰だお前? 地球人だな?」
 少女は尊大な態度でそう尋ねる。タマコは彼女をじっと見つめてから、沙那を見上げた。呆然として
「誰この子……裸だけど……」
 沙那の両手が行き場を失っておろおろし、視線も落ち着きなく辺りをきょろきょろした。
「あー……誰だろうね、知らない子かな?」
 沙那の様子に素っ裸の彼女はいぶかしげに目を細める。
「……何だ? どうした? あぁ、もしかしてサナ、この女はお前の女なのかモガッ」
 とんでもない事を言いだした彼女の口を沙那が慌ててふさぐ。タマコはやっぱり呆然としたまま、小さく呟いた。
「……小さい頃のあたしに似てる」
 沙那は意味もなく口をぱくぱくさせた後、
「――――いとこなんだ。まだ言ってなかったけど、外国におばさんがいてね、それで」
 タマコは呆然としたまま、拳を握った。
 
 
 頬が痛む
「沙那! これはなんだ? 凄いぞ、人がたくさんいる! とても秩序的だ!」
 タマコに拳で(平手じゃなくて拳で)殴られた頬を氷水で冷やしている沙那。その後ろで件の彼女は、勝手にコードを接続してテレビを眺めている(電子機器には強いようだ)。
「……駅前」
「凄い。全てが人のコントロール下に置かれているのか……自然は全く無い。秩序という法則に人々は守られ――」
 彼女は今、基調の白が眩しいセーラー服を着ている。これは沙那が顔の傷を増やしながら苦労してタマコから借りてきた品だ。激怒して帰って行ったタマコの家に行き「いとこの事なんだけど、あの娘の服全部洗濯しちゃって、今着るものが無くて、それでもしよければなんだけど、何か着るものブッ」と玄関で顔面に叩きつけられたのだ。広げてみると中学時代のタマコの制服だった。下着はなかった。着せてみると意外とぴったりだった。
 言われてみれば、確かに似ているかもしれない。中学の時のタマコそのものだ。自分が宇宙人だと主張する事はなかったが、態度は横柄だったし、髪はまだ黒かった。
「沙那! これはなんだ!?」
 現実に引き戻された。沙那がテレビに目をやると、海に浮かぶ大きな灰色の鉄のかたまりを背にした男性リポーターが、なにやら旗やら横断幕を掲げた人たちを脇目に意気込んで話している。
「大きい……宇宙船か?」
 沙那は救急箱から鎮痛剤を取り出すと水で飲み下す。
「ううん、昔そういうアニメがあったけど……それは軍艦。アメリカの空母とかなんとか……東南アジアの方に派遣するから補給に来たんだって」
 別段沙那は軍事マニアではない。その空母が立ち寄る港がこの近くなのだ。噂は耳にしていた。
「軍艦……なるほど、局地用の水上戦闘艇だな。◇▲*●はどうなっているのか……」
 また「むむむ……」と悩み始めた彼女の前に座り、頬に氷水を当てたまま、件の携帯端末を手にした。
 OSを起動し、画像ファイルを展開する。どうファイルの中で動かせるのはこれだけのようだ。
 端末自体はネットインフラと繋がっているらしく、いじるとダウンロード中の表示が出て、拡大表示や衛星写真表示ができる。驚くべきことに衛星写真の方はリアルタイム更新だ。どうなっているのだろう?
 しばらくいじっていると、どうやら例の赤い点はこの辺りの駅構内を指し示しているらしいとわかった。
 沙那の住む街は県内ではもっとも発展しているので、そこにある駅もやはり相応の整備がなされている。ただ歩いて入って、そのまま出るだけでも五分はかかるし、集まっている人も膨大だ。老若男女、国籍を問わない人がいつも忙しげに歩いている。それを狙った売店が軒を連ね、地下にはデパートが、十五階建ての上階には本屋から雑貨商店、高級料理店まで、ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれている。昔は「ここへ来れば欲しいものは何でも手に入る」とCMが宣伝して回っていたものだ。インターネットが普及した今になっても、その役割は変わっていない。
「(どこかの店……? でも位置的に変な場所にあるな)」
 砂那は顔を上げて、テレビに夢中になっているアーニャを見た。彼女は「む!?」と目を見開くと、頬を桜色に染め、
「これは……ふかふかしてるぞ、これは何だ? 白くて……む、うむ……」
 とだんだん恍惚とした表情となり、うっすらと笑みを浮かべた。
「……それは犬だね」
「イヌ? ふむ、イヌか。なんというか、触ってみたいな……」
 彼女を見ながら考える。
 もしかして――父親が持ち出した『ある重要な物』とは彼女の事なのではないだろうか。
 だとしたら、今すぐに鳴海カナに電話をするべきではないだろうか。そして彼女を引き取ってもらい、自分はアメリカへ――
 砂那は思わず、ポケットの中の名刺を親指でつまんで握っていた。
「……あのさ、今日はちょっと一緒に来て欲しい所があるんだ」
「む? 一緒に? 外に出るという事か?」
 砂那は少し迷ってから、コクリと頷いて返した。彼女はふん、と鼻を鳴らし
「気は進まないな。記憶は欠落しているが、私は地球人が嫌いだ。あれだけの地球人に囲まれるのはとても嫌だ。言い方を変えると『吐き気がする』」
「別に変えなくてもいいけど……家にいてもしょうがないだろ? とにかく、父さんがいないと何が起きてるかもわからないし」
 沙那としては彼女がどこぞの(おそらくどこか外宇宙辺りの惑星の)姫だという話はとても信じられないので、何かの比喩か暗号だと思っている。いずれにせよ、その比喩か暗号は沙那にはさっぱり解けそうもない。
 父親がどこでどうしているのかは知らない。だが、彼女という手掛りは残している。そして携帯端末の赤い点はすぐ近くの駅を指していて――放っておくには、少し惜しい気がした。少しくらい、覗いてみても良いと思う、なにしろ、父親は自分に彼女を預けたのだから、それくらいの権利はあるだろう……
「サナ! サナ! これ……!? これはなんだ?」
 彼のそんな考えはつゆ知らず。彼女は『異星人』らしく相変わらずただの朝のつまらない特集なんかに夢中だ。今日の特集は夏本番に楽しむつめた〜いクレープ。最高級の巨峰と紅苺のソースをかけた至高の一品。この夏売り出し中の女性キャスターが子供のようにはしゃぎながらぱくついて、「おーいしー」と笑みをこぼしている。
 沙那は浅く、何かに納得したように何度もうなずいた。
「……それはクレープ。甘くて、おいしい」
「甘い!? おいしいのか!?」
 沙那はうんうんと頷いて
「すっごく甘くて、おいしい。しかも冷たい」
 彼女は目をきらきらと輝かせて
「しかも冷たいのか!?」
 沙那はゆっくり、頷いた。


 「タマコの言ったとおりだ……やっぱり表に車が回してある……」
 締め切った薄手のカーテンの影から、沙那は玄関前の道を覗いていた。彼の視線の先には駐車禁止の道に堂々と止まっている黒の乗用車があった。
 アーニャをうまい事説得し、いざ駅前に出かけようとした時、砂那は思い出したのだ。タマコが今朝家に入って来た時、彼女は『家の前に変な車が……』と口走っていた――誰の車かはわからないが、父親が『ある重要な物』を持ち出し、それが原因で行方不明となったのなら、その『重要な物』を狙って誰かが砂那の動向を監視している可能性もゼロではないだろう――と、砂那は考えた。もちろん常識的な人間の発想とはかけ離れてはいるが、今の砂那にとってそんな事は重要ではない。現実に起こる可能性があれば、それを全部潰すのが彼が父親に教え込まれたやり方だ。
 それに考えたくない事だが、その『重要な物を狙っている誰か』の内には、鳴海カナも含まれているのだ。
「(……鳴海カナ、か)」
 砂那は拳大の小型望遠鏡で、車を観察する。運転席に一人、リクライニングシートを倒して寝ていて、助手席に一人、ラップトップ型の端末を操作するのがいる。どちらのもスーツ姿だが、こんな朝から活動するスーツ姿の社会人というのも想像できない。
 今度は車の方へ目を移す。一見した所、車種はアウディだろう。しかし所々改造の後が見受けられる。ガラスは光の屈折度がおかしいし、タイヤはゴムの色が経年の劣化とは違う色落ちをしている。それぞれ防弾加工がなされているに違いない。乗っているのはカタギの人間ではないだろう。
「…………」
「サナ! 早く行こう、早く食べたい!」
「うん、そうだね……こっちだ」
 沙那は彼女の手を引いて一階へ降りた。トイレに向かう。
「ちょっと待て! トイレに行きたいなら一人で行け! 怖いって言ってもダメだぞ!」
「いいから来て、ほら」
「いーやーだー――むきー……!」
 強引に引っ張っていき、個室のトイレに入ると、便器の後ろにある窓を開いた。ちょうどリビングに転がっているダンボールくらいの大きさだ。内側から格子を外し、外を確認する。
「……よし、ここから出よう」
「はぁ? サナ、お前は家を出る時はいつもトイレの窓から出るのか?」
「ううん。今日は特別。――よっと」
 沙那はさっと身を窓に滑り込ませ、見事に外に着地する。ほとんど音もしなかった。
「いいよ、ほら、おいで」
「……まったく、お前達野蛮人の文化は心底理解できんな」
 彼女はぶつぶつ文句を言いながらも、沙那に続いて窓から出ようとする。えっちらおっちらと手間取って、ようやく半身が外に出たところで、
「この――うわぁ!?」
 手足をばたつかせて落ちた。
「よっと」
 沙那はその体を見事にキャッチ。そのまま体を持ち上げて、地面に立たせる。
「怪我は」
 彼女はきょとんと目を見開いていたが、すぐにむっと視線を逸らして
「……昨日お前に蹴られた所が痛む」
「まぁ……僕も絞められた首が痛むよ。――こっちからだ」
 沙那は再び彼女の手を引いて日陰の方へ進む。沙那は突き当たりの背の高い塀につくと、さっとそれに手をかけて、あっさりと昇ってしまった。
「お、おお……」
「ほら、手」
 感嘆している彼女に手を差し出す。彼女は「ん、うむ」と手を掴み、沙那はぐいと引き上げた。急に引き上げられて、彼女は悲鳴を上げる。
「うひゃぁ!? ……おい! 危ないだろう、もっとゆっくりやれ!」
 沙那は全然聞かずに
「飛び降りるよ――よ!」
「わぁ!?」
 彼女を抱いて裏手の路地に飛び降りた。膝のクッションを深く取って、衝撃を効率よく和らげる。
「――よし。行こう。裏には手を回してないだろうし」
「よしじゃない、どこもよしじゃない! 帰りは玄関から入るからな! 地面に足をつけてだ! ――手を離せ!!」
 ぱしっと彼女は体を支えていた沙那の手を叩いた。沙那はその手を振りながら「ごめん」と答えて、歩き出す。
「これでそのクレープとやらが不味かったら承知せんからな……どこまで歩かせる気だ」
「帝都駅。おいしいと思う」
「どこなんだそこは……沙那はそのクレープとやらを食べた事あるのか?」
「……タマコに昔連れて行かれて食べたよ」
「ふーん、あの地球人もか……。それで、おいしかったのか?」
「一口食べたらおかわりしたくなるよ。タマコがそうしてた」
「ふーむ……まぁ、少しは楽しみだな。なるべく地球人がいないルートで行くんだぞ」
「がんばるよ」
「絶対だ」
「はいはい」
 沙那がそう言って角を曲がった時だった。

「あら、すっごい偶然」

 目の前に鳴海の顔があった。

 ぎょっとするなんてものじゃなかった。全身がビクンと反応し、本能的に顎を引いて、腰を落とし、左腕が顔面を守るために上がった。バックステップで距離を取ると同時に「え? え?」と何が起こっているかわかっていない彼女を背後に取る。
「――びっくりさせちゃった?」
 サングラスをかけた鳴海は、口元だけを歪めて沙那にほほえみかけた。沙那は警戒しつつも、彼女の平静な様子に合わせ、あげていた左腕を降ろす。
「いえ、別に……」
「そう? ――あら、可愛い娘連れてるのね。紹介してくれる?」
 鳴海が砂那の陰に隠れた彼女に顔を向けた。サングラス越しの目を細めて、微笑みかける――砂那はその目を見下ろしながら、逡巡した。

 どうする?
 ここで本当の事を言うべきか?

 様々な迷いが頭の中を巡った。車は家の玄関前に止めてあった。家の裏手にいた彼女はあの車の持ち主ではないかもしれない。ただ偶然、この辺りにいただけか……いや、それはおかしい。『重要なあるモノ』を追って彼女は忙しいはずで……だがそれがこの女の子であるという確証はどこにも無い。事情を話せば、それ相応の対応をしてくれるかもしれない。まだまだ未熟な自分が知らないような、全てを丸く納めるすべを知っているかも、でも、しかし――
「……いとこです」
 散々迷って、結局そう呟いた。後でどう言い訳するか、既に考えながら。
「目の色が青いね。外国の娘みたいだけど――ね、お名前は?」
 鳴海がかがんで目を合わせると、話しかけられた彼女は身をすくめて沙那の後ろに隠れた。小さな声で呟く。
「おい、沙那。こいつなんか……」
 沙那は鳴海に見えない角度で小さく頷いて返した。鳴海は「ね、お名前は?」と人なつっこい笑顔で尋ねる。
「――アーニャです。アーニャ・ブラドリー。これからお世話になる家がカトリックで、年少留学生を受け入れてるんです。今日は引っ越しの手伝いと、顔合わせに」
 沙那が考えていた『設定』を答えると、鳴海はすっと顔を上げ、そしてニッと色の違う笑みを浮かべた。
「頭の回転が早いね沙那君。中学三年生まで正義のヒーローを目指してただけあるよ」
 沙那は眉をひそめる。鳴海は笑みを微笑みに変えた。
「……アーニャちゃん。こっちにおいで。クレープならいくらでも食べさせてあげるよ」
 鳴海は彼女――アーニャに手を差し出した。彼女は沙那の背に深く隠れ、沙那は鳴海とアーニャの間に割って入った。
 鳴海は背を正し、サングラス越しの目を沙那に向ける。
 太陽の光で中が透けて見えると、その瞳は全く笑っていなかった。鋭い、猛禽類のそれに似た瞳が、沙那を射貫く。
「沙那君」
「……はい」
「今の生活って楽しい?」
「え?」
「私が君だったら、すぐに逃げ出したくなると思うな。両親がいなくなって、性悪な親戚に引き取られるなんて、不幸そのものだよ。それも子供の内に経験するなんて、性格が歪んじゃう」
「……」
「それ以外にも、たくさん不満はあるでしょう? 『ここ』じゃぁなかなか思い通りにできないよね。私も昔は嫌だったよ。でも『向こう』に行けば大丈夫。個性が尊重してもらえる国だからね」
「……あの、何の話かよくわからな」
 鳴海の手が瞬時に伸びた。沙那が反応するまもなく、その肩をわしづかみにされる。
 鳴海の唇が近づく。
「…………。このままアメリカ行きはやめる? 嫌な事だらけの『ここ』に留まる? やめておきなさい。もう十年以上君は嫌な目に遭い続けてるじゃない。この先に希望を持ったって、結局また打ち砕かれるのをみるだけよ。私はね、君の事、考えて言ってあげてるんだよ――それとも宇宙人、本当にいると思ってる?」
 心臓がわしづかみにされたかと思った。だが、何とか混乱を鎮めて、平静を装った返答を続ける。
「……鳴海さんが言ったんです。父が、宇宙人を追っていたって」
 違うよ、と鳴海は耳元で甘く囁いた。心臓を優しく撫でるような、大人の甘美な香りがした。
「あなたのお父さんも、『見えないはずの宇宙人』を追っていた――って、言ったのよ」
 沙那は押し黙った。その言葉の意味を、かみ砕く。飲み干す
 父さんは幻覚をみていたというのか?
 高木砂那の父、高木一は自らを宇宙人と名乗る少女を本気でそうだと信じて、どこかからさらい、家の地下に監禁した。原因は過剰なストレスが引き起こした解離性障害かその類だ。そして鳴海は、その不祥事をもみ消すためにここに来たのだ。警視庁内でもほぼ秘密部隊化している非公然公安部隊『桜』は、これまでは別のもっと穏便な課に偽装されていて、仮に父親の件が発覚した場合、不祥事と共に部隊の秘密が全て露呈する可能性がある。そのためのもみ消しだ――脳裏に一瞬で、そんな『現実的な真実』が描かれた。沙那を沈黙させるに十分な説得力があった。そんなはずないと思えば思う程、「では彼女は宇宙人なのか?」という疑問が頭をもたげてくる。その答えを、沙那は持っていない。沈黙するしかなかった。ただ不安ばかりが胸の内で暴れ回った。
「……勘違いは解消したかしら?」
 鳴海はそれに満足そうに頷いた。アーニャに手を伸ばし
「この娘はね、児童略取とか、誘拐の被害者なの。容疑者は言わなくてもわかると思うけど――とりあえず、見つかってよかった。こっちで預かるけど、いいよね」
 と彼女を引っ張った。アーニャはその手を振り払おうとしたが、鳴海の華奢に見える腕の力に僅かに揺らす事もできなかった。アーニャの目に一瞬おびえの色が混じる。
「サナ!」
 沙那は一瞬ためらった後、彼女を引いていこうとする鳴海の手を慌てて掴んだ。
「……どこに連れて行くんですか」
「しかるべき所に、だよ。私は探すのが仕事だから、その先の事は詳しく知らない。だけどセオリー通り行くなら、児童福祉局に連絡しなくちゃ。もちろん変な事はしない。一応私も、警察官だからね。正義感があるのさ」
「……それ、本当ですか」
 鳴海はゆっくり頷いた。
「この子の身元がはっきりしたら、君に報告するよ。どういう処置がとられたかも。その後で連絡が取れるようにしてあげる。あ、お父さんのことは心配しないで、全部上手くやってあげるよ。高木さんは功労者だからさ、多少の失敗は……ね。約束するよ」
 沙那は迷うような視線を彼女に向けていた。しかししばらくすると、僅かに視線を落として、手を離した。
「サナ? おい、どういう事だ!?」
 沙那は彼女の声に応えなかった。彼女の揺れる黒髪を一瞬見て、また視線を落とす。
「サナ!」
 鳴海は抵抗するアーニャの両腕を掴んで、鳴海は無言で彼女を引っ張った。タマコから借りたセーラー服が、くしゃくしゃになる。
「サナ!! 嫌だ、この女は嫌だ、見捨てる気か……!?」
 彼女の声に湿っぽいものが混ざった。しかし沙那は、身動きできなかった。
 沙那の脳裏に浮かんでいるのは父親の顔だった。父親は確かに、正義のヒーローだったと思う。どんな事があっても正義を断行する強さが、無口な性格の裏に見え隠れしていた。どんな事情があったのかは知らないが、アーニャを助けたのはそういう行動としての結果だったはずだ。
 だが同時に、父親は母親を捨てている。今も自分に全てを押しつけて、どこかに消えてしまっているのだ。
 鳴海の正論に勝てる程、父親の言う『正義のヒーロー』なんて物を信じる気になれない。父親の正義はあまりに身勝手だ。そのせいで母親はいなくなり、砂那は片親で育つ事になった。めったに家に帰ってこない父。夕飯は一人で食べて、小学校の卒業式も中学の入学式も一人だった。タマコや津田が過干渉な親に辟易している様を見ながら、砂那はすごくうらやましかった。それもこれも、自分が一時の感情で正義のヒーローぶっていたせいだ。これ以上バカみたいにそうして、また大事な物を見失うのは嫌だ。鳴海が与えてくれる新しい生活を失っては、もうこの先に残されたチャンスは、もうないかもしれないのだ。
「ほら、行こう」
「いや――むっ、むぐ!?」」
 鳴海はさっとアーニャの背後に回り込むと、わめくその口を片手で閉ざし、もう片方の腕を脇の下にもぐらせて体を持ち上げた。アーニャの声がくぐもって、彼女は目の端に涙をためながら、それでも必死に沙那を振り返って叫ぶ。
「……! ……もが!? ……沙那ッ!」
 沙那が顔を上げる。過ぎ去っていく彼女の顔を見つめる。恐怖と哀願でくしゃくしゃに歪んだ、彼女の表情。もはや声は出ていなかった。しっかりと口は閉ざされ、小さな叫びのようなモノが漏れるだけだ。だが瞳は年相応に潤んでいて、必死に何かを叫ぼうとしている。
 確かに似ていた。小さな頃のタマコそっくりだ。横暴なくせして、困った事があるとすぐに泣いてしがみついてくる泣き虫だった。鬱陶しいと思っていた。助けたら助けたで文句を言うのだ。あの泣き顔を見ると、いつも憂鬱だった。

 ――「沙那って元気いっぱい、正義のヒーローって感じだったよね」――

 子供の頃以上に、今の沙那はタマコを見ると憂鬱になる。タマコがかつて見た正義のヒーロー・高木沙那は死んだのだ。父親に見捨てられた母親と一緒に。タマコがどれだけ昔を懐かしんだって無駄だ。もう絶対に、信じられない。馬鹿みたいに、ただ目の前の人を助けるなんて、もう、できないのだ――


 本当にそうか?


 だから見過ごすのか。目の前で人が泣いているのに。嫌だ嫌だと泣き叫ぶ女の子が担がれているのに黙ってぼけっと突っ立っておくのか。『だって宇宙人なんて信用できないし』ってそういうわけか――
 でも、確かにそいつは得策だ。全く、合理的で、すばらしい、大人の判断だよ。

 少なくとも、お前は絶対に、傷つかない。

 
 気がつくと、どくん、どくん、と心臓が大きく脈打っていた。落ち着くために、息を深く、吸い込んだ。そのまま空気を肺の奥に飲み込もうとして、
「――――待てッ!」
 無意識に息が漏れた。おまけに声帯まで震わせて、自分でびくつくくらいの怒声が飛び出た。
 鳴海は振り返りもしなかった。
 聞こえたはずなのだ。だが返事も無しだ――その代わりに、彼女の背中には色々な言葉が書きなぐられていた。『子供は相手にしてられない』とか『やっぱり子供ね』とか――多くは砂那が勝手に抱いた被害妄想だったかもしれない。それは砂那自身にもわかっていた。
 だが頭には血がのぼった。砂那が一番よくわかっていて、いつだって苦しんでいた『弱点』を、鳴海は振り返りもしなかった事で突き刺したのだ。
 許せなかった。鳴海も、そしてそれを苛立ちつつも受け入れてしまいそうな自分に。
 ほとんど無意識に、沙那は腰に手を回し、掴んだそれを両手で前に突きだした。
 
 火薬の炸裂音
 
 鳴海の足下の地面が弾かれ、はがれたコンクリートが宙を舞った。高速で弾きあげられたそれは、鳴海の頬に一筋の血の筋を作った。
 空薬莢が堅いコンクリートの地面に落ちて、甲高い金属音を立てた。沙那の足下に転がる。
 鳴海の背後で、沙那は本物の拳銃――IMI製ジェリコ941、イスラエル製オートマチックピストル――を、両手でしっかり構えていた。父親の書斎にあったそれだ。腰を落とし、一歩前に出した足に体重をバランスよく載せるその様は、まさしく実践的射撃スタイルのお手本そのものだ。
 鳴海は足を止めた。
「……何?」
 淡々としたつぶやきだった。
 沙那の心臓は早鐘を打っていた。バカだと思った。なんて大それた事をしてしまったのだろうと。後悔の念は濁流のように砂那の思考を埋め尽くしていったが、しかしもはや後には引けない。そう思うと、頭は勝手に色々な事を判断していった。内心の動揺を悟らせないために、顔の筋肉が弛緩し、無表情を作り出す。勝手に口が言葉をはき出す。
「……彼女を離してください」
「無理だよ」
「だったら次は当てます。外しても、その次で当てます。それを外したら、そのまた次で当てます。それを装弾数十六発分、繰り返します」
 鳴海は視線だけを振り返らせた。
「……あなたにやれるかしら?」
 沙那は親指で劇鉄を起こした。ガチャリ、という凶暴な金属音がした。
 射撃ならハワイで十二回、韓国で七回、父親の指導の下訓練している。二発目の脅しはしないように訓練されているのだ。そう、まさしく、『次は当てる』。
 口が勝手に開く。
「返してください、その子――親戚の子なんです」
 沙那が呟きに、鳴海は低い声で間髪入れずに返す。
「子供みたいな我がまま言わないで。あんまりしつこくすると、私も怒るよ」
「……我がままとかじゃ、ないです」
 砂那は銃の照準――アイアンサイトの上にしっかりと鳴海の頭を乗せた。その照準越しに、鳴海の目を見つめる。
 鳴海はしばらく黙っていた。流す鋭い目線をサングラスの奥で光らせて、沙那を見つめる。沙那は引き金にかけた指から手を離さないまま、それを真正面から受け止めた。
「……いいよ」
 鳴海がふいに、抱えていたアーニャを降ろした。彼女は一目散に沙那の方に駆けて来て、彼の背に隠れた。沙那は銃を構えたまま、
「そのまま後ろを向いて、壁に手をついてください。足を開いて」
 鳴海はそれに従わなかった。まっすぐに相対し、こちらを見つめている。
 桜色の唇が小さく呟く。
「……クレープ。食べに行くなら早く行った方がいいよ」
 その時、遠くから何か獣がうなるような声が聞こえた。だんだん近づいてくる。
「朝の特集を見たお客が並んでるだろうし、それに――」
 甲高い急ブレーキの音
 沙那がはっとした時、すでにその車は――黒の改造アウディは鳴海の背後のT字交差点を急カーブして突っ込んできていて、こちらに凶暴な鼻先を向けていた。
 猛速で迫る鉄のかたまりを背にして、鳴海は淡々とした声で呟いた。
「食べる時間はあげないから」
 沙那は「くそ――ッ!」と奥歯を噛みしめてアーニャの手を取って走り出した。その背後で、鳴海がアウディに乗り込んでいる。
 沙那が最初の交差点を曲がった時、車は白煙を上げてその後を追い始めた。