Episode1 Episode2 Episode3 Episode4
Episode5 Episode6 Episode7 Episode8
Episode9 Episode10 Episode11 Episode12
Episode13 Episode14 Episode15 Episode16


↑この作品を気に入った方はクリックしてくださるとうれしいです↑



 
 何も思い出せない。
砂那は映画館を出たが、その映画館は自宅から何十キロも離れた場所にある、全国チェーンの一店舗だった。全く同じ映画館が自宅のすぐ近くにもある。なのになぜ、こんな所に来たのだろう……それも、趣味の悪いアクション映画を一人で見るなんて――
「(失恋でもしたのかな……)」
 ふと、そんな事を思った。思ったが、深くは考えなかった。頭の中がずっとぼんやりしていて、何も深く考えられなかった。まるで脳のどこかが、麻痺しているかのように。
「えー? せっかく回って来たのに……ここも封鎖されてるの?」
 砂那が手近な地下鉄に向かっていると、そんな声が傍らから聞こえてきた。声の方を見ると、狭い裏路地の前で人群れができて、口々に文句を言っていた。よく見ると、路地を隔てるように黄色いテープが張られていて、その前には二人の警官が立っている――どうやら封鎖されているようだ。
「おまわりさん、今日はあの銭湯やってないの?」
 人群れの中から、中年の男が文句をつけるようにそう食って掛かった。彼の傍らには老夫婦が困ったように立ち尽くしている。
「さぁ、我々は命令されてここにいるだけでねぇ……申し訳ないんだけど」
 定年間近くらいの警官が、のんびりと中年をなだめた。
「申し訳ないんじゃなくてさぁ、その胸に着けてる無線とか使って聞けないの?」
「そんな事したら私怒られちゃうよー」
「こっちはせっかく時間作ってきたのに……ねぇ婆ちゃん」
 と中年の男は老夫婦を振り返る。
砂那はその様を眺めながら、なんとなしに、件の路地の向こう側を覗いてみた。
 『ゆ』という、大きなイルミネーションの看板が見えた。しかしそれはすっかり日が暮れた今になっても光っておらず、真っ暗に沈黙していた。
「(……なにか)」
 頭の中で、何かが緩く爪を立てた。しかしそれは、あまりにも弱々しくて、すぐに意識の彼方へ追いやられていった。
「しょうがないよ……今日は別の所にしよ」
 ちょうど人群れの横を通り過ぎようとした時、そこから少年と少女の二人が、肩を寄り添って出てきた。砂那の少し前を歩きながら、小さな声でささやきあっている。
「いつもは泊めてくれてるんだよ……ほんとだよ?」
 少年が、少女の耳元で小さくささやいているのが、夏の生ぬるい風に乗って漏れ聞こえてくる。少女は小さく頷く。
「うん……」
「あの映画館、有名なんだよ。いつ行ってもやってるし」
「うん……」
「何かあったのかな」
「うん……」
「今夜、どうしようね……」
「……うん」
 二人はそのまま、別の路地を曲がっていった。砂那はその姿にまた、何かが引っかかったが、しかしそれだけだった。頭を押さえる――何か、何かが思い出せない。だが、それが重要だとも思えないし、思えない自分に違和感も持たない。ただ、夢の中にいるようにぼんやりとしていて、家路に着く足を、止めてはいけない気がする…………


 地下鉄に降りて、電車に乗った。電車の中はがらがらで、砂那が乗った車両には砂那一人しかいなかった。
 砂那はがらがらに空いた席にだらしなく座り、天井の吊り広告を眺めていた。表情に力が入らない。目にも力が入らない。何も考えたくなくて、体がだるい……
 ぼんやりしていると、電車の中に数人の女の人が乗り込んできた。全員お酒が入っているらしく、頬が朱色に染まっていて、砂那の右斜め前の席に座ると、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めた。
「今日はよかったねー、すっごい楽しかったぁ」
「うんうん! よかったわぁ、あの女の子、また来てくれないかなぁ?」
「チナちゃん最近元気なかったけど、元気でたねー」
「だってあんなことしたの久しぶりだしぃ、またやりたいなぁ……!」
「なんか表情が若返ったよね」
「あーわかるっ、若返った若返った」
「ちょっと、そんな歳じゃないわよ!」
「あーそうだっけ? ごめーん」
「このやろこうしてやるこのこの……」
「わはは! やめてぇー!」
 一人、スーツ姿で一際酔っ払っている女が、傍らの派手な格好をした女に襲い掛かった。襲われたほうの女はきゃーきゃーと悲鳴を上げて、周りは楽しそうにそれを笑った。
「(……だれだろう)」
 知らない人のはずだ。だが、眼が離せない。痛みを感じる。脳が記録する記憶ではなく、一瞬の感覚――背中の皮膚が痛みを思い出していた。
「(あの人に――叩かれた……?)」
 電車が次の駅に止まると、彼女達は騒ぎながら、出て行った。またどこかに飲みに行こうと騒ぎながら。
再び電車が発車したとき、電車の中は酷い静寂に包まれていた。


 帝都駅に戻ると、駅の構内はもうすっかり人がいなくなっていた。随分遠いところに出かけていたのだと、改めて思う。昼間とは打って変わって静かな構内を、ぽつぽつと歩く。
「だぁーまったく、貴様らまたサボっておるなっ!」
「うわっ、うるせぇ爺が来やがった」
「サボりじゃないですよ、クレープ食べてるだけです」
 騒ぎのほうに目をやると、広い通路の端で、クレープ屋の屋台を前にした警官二人と、それにつかつかと歩み寄る老警備員が見えた。老警備員は警棒を教鞭のようにひゅんひゅんと振り回しながら近づき、
「なぁにがくれーぷだばっかモン! 貴様ら警官は! 浅慮で残虐な逆賊からお国を守護する、誉ある聖職者であるという自覚が足らんのだ! そこになおれ!」
 警官二人のうち、三十台くらいの癖のある顔つきの警官が、鬱陶しそうに老人を見やる。
「爺さん、大陸に夢かける時代は五十年も前に終わってんだよ。なにが聖職者だ。金貰わなきゃやってねぇよこんな仕事、なぁ?」
 と、今度は傍らでメガネにクリームをつける警官を見やる。メガネの警官は「うーん」と悩みつつも
「まぁ、うつ病にかかるのはご免ですね」
「うつびょう? くだらん! 全くくだらん! 貴様ら若い者は何でもかんでも病のせいにして己に罪は無いと詭弁ばかりだ、全く……うぇっほ、げほ!」
 老警備員はそこで、急に激しく咳き込んだ。口の悪い警官が「あーあーもう」と彼の背中をさすってやる。
「爺さんは自分が病気なのをさっさと認めろよ……いつ引退すんだよ。毎日ガキ共と追いかけっこしてっと、走ってる間にぽっくり逝っちまうぜ。そうなったらガキ共トラウマ」
「うぇっほ、げぇっほ……やかましい鈍ら坊主が、貴様は歳を食っても坊主のままだ」
「爺さんも何時までたっても爺のままじゃねぇか……困っちまうぜ」
「あのぉ、おかわり頼みます? あ、店員さん、僕スペシャルチョコで。トッピングはイチゴジャムと、納豆。ひきわりで」
 砂那は三人の横を通り過ぎながら、やはりどこか、袖をつかまれるような感覚が残った。老警備員は知っている。大陸爺さんだ。まだ警備員をやっていると言うのも驚きだが……それ以上にあの、二人の警官が気にかかった。彼らを見ていると誰かの、小さな手の感覚を感じる。手でしっかりと掴んでいた、小さな手を……
「(……子供の頃の……悪戯してた頃の、タマコの手かな……)」
 手をぎゅっと握り締めてみる。だがそうした事で、その感触はすぐに消えてしまった。小さな水泡のように後悔が沸き起こり、そして弾ける様にあっさりとそれは消えた。
ふいに背中を寒気が走った。それはぼんやりとした感覚が反転したような感覚で、急激に全身へと広がった。胃がゆっくりとねじ曲がるような、緩い吐き気まで沸き起こる。
「う……なんなんだよ……うぅ」
 家路へと歩を早める。早く家に帰って、目も耳も覆ってしまい、ベットの中でじっとしていたい。何も聞きたくない。何も見たくない。何もしたくないし――『もう、全てから手を引きたい』
「(もう……? もう……そうだ、もう、アメリカに引っ越すんだ……)」
そうだったのだ。すっかり忘れていたが、もうすぐ自分はアメリカに引っ越すのだ。そこでの新しい生活、自由な生活。それを楽しみにしていて――それで、どうしたのだっけ?
「う……」
 悪寒が再び増した。吐き気も強くなってきて、砂那は歩調をさらに速めた。


「だぁーったくよ! 今頃帰ってきやがったぜこのド馬鹿! おっせーよ!」
「……津田?」
 自宅前にようやくたどり着くと、玄関前に原付――津田お気に入りの改造ベスパが止まっていて、シートに座って津田が待っていた。彼は腕や体やらをしきりに擦りながらわめく。
「お前がおせぇから体中虫に食われちまったぜ……かぁー痒い!」
「……何しにきたの?」
 砂那がぼんやりしたままそう尋ねると、津田は目をまん丸にしてベスパの座席から飛び降りて、
「何しにじゃねぇだろ! お前今日業者に荷物預けんじゃなかったのかよ?」
「……あ」
 言われてみれば思い出す。小さい荷物は先にアメリカの方に送るのだった。その為に業者を呼んでいたはずなのに……
「あ、じゃねぇよ、ったくよ……お前ん家の前で業者がうろうろしててだな、タマコがそれ見て、お前が家にいないって聞いて、俺に連絡とって、んで俺がベスパちゃんをかっ飛ばして来てみたら、やっぱりお前はいねぇでやんの。タマコはなぜか俺に怒鳴り散らすし、たまんねぇよ!」
「ご、ごめん――すっかり忘れてて……」
「どこ行ってたんだよこんな時間まで」
「……それが、僕もよくわかんないんだけど、映画館に――」
「映画館!?」
 津田がまた、目をひん剥いた。
「ばっかじゃねぇの!? 彼女もいない癖して映画館なんか行ってたのか? そんな場合かよ」
「か、彼女は関係ないだろ……というか、僕も何で映画館になんか行ったのかわかんなくて――う、」
 砂那は再び強く襲ってきた吐き気に背を曲げて、口元を押さえた。津田はすぐにそれに気付き、「おいおい大丈夫か?」と体を支えてくれた。
「うん……でも、ちょっときもち悪い……」
「お前もか……タマコも寒気がするとか言ってたし、なんかうつされたな?」
「タマコが……?」
「あぁ、散々怒鳴り散らした後、急にな。さっき家に言ったら玄関にも出てこねぇ……まぁとにかく家に入ろうぜ。何してたか知らないけど、まずは休まないと」
「うん……」
 砂那は玄関に近づき、ポケットに手を突っ込んだ。中から鍵を取り出し、ドアノブに差し込む。
――いや、差さらなかった。鍵はその先すら入らず、がちゃがちゃと鍵穴に入るのを拒絶する。
「あれ……?」
「おいしっかりしろよ、貸してみろ。……何だコレ、何でこんなもん持ち歩いてんの?」
 津田が呆れたように言って、砂那の手から鍵を奪った。砂那の目の前にかざす。


「ロッカーの鍵じゃねぇか」


 寒気が光に変わった。
脳の奥底で光が炸裂し、同時に猛烈な勢いで『動画』が断片的に脳裏にフラッシュバックする。膨大な量の映像、セリフ、音、恐れ、怒り、怯え、呆れ、笑い、怒声、自分自身へのふぬけるような不信感、今この場所からの逃避願望、正義のヒーローへのどす黒い怒り、首を絞められた苦しみ、とっさに突き出した拳の感触、額の痣の鈍く脈打つ痛み、柔らかな手を引く温かい感触、全力で駆ける両足の疾走感、閉じた瞳を貫くまぶしい光、敵を出し抜く爽快感、再び訪れた希望への期待、打ち砕かれる無力感、何も感じない虚無、虚無、虚無、虚無、そして、あきらめ。
自らも動揺する程の、脈動する夢と現実の混沌が全身を覆い、しかし砂那は驚くような余裕もなかった。最も大事なものが、今、その手に握られていない事に気がついたのだ。
自分は何をしているのか、こんなところで何をしているのか、守るべきものを守れず、奪われた記憶を自力で取り戻す事もできず、あまりに弱い――弱すぎる、何が正義のヒーローだ、迫り来る悪の組織からたった一人の少女を逃がす事もできず、記憶を奪われ、ぼけっとしたまま、そう、それこそ安い映画を見てきたような表情で家に帰り、ベッドにもぐり込もうとしていたのか、目も、耳も覆って、「やっぱり無理だったか」って、そう無意識に思いながら、自分だけさっさと新しい生活に逃げ込もうとしたのか、また、またなのか、お前は母親を守れなかった事実に恐れをなして膝を突き、そしてそこから僅かに体を起こしたと思ったら、やっぱりダメでしたとまた膝を突いていたわけか、一体、何のために? 何のためにお前は鳴海カナに引き金を引いた? 逃げ出す事よりも、戦う事を選んだからじゃないのか? 他の誰かに言われるがままより、自分から少女を救おうと覚悟したんじゃないのか? 飼い殺されるより、自らの正義に従って拳を振るおうと決めたんじゃないのか? なのにお前は逃げてばかりだ、反撃したのは僅か一回、拳銃を一発撃っただけ、あとはずっと逃げ回り、彼女のわがままに付き合い、幼い頃のタマコを飼うように、仮想デートを楽しんでいたわけだ、映画を見て、買い物をして、だけど質問には答えられなかった『じゃぁ聞くけどさ、なんでお前はあの娘を助けたわけ? 怖い美人のお姉さんに追いかけられるより、胸のない女の子助けた方が良いって考えた理由は?』答えがない、当然答えられるべき問いに答えを用意していない、本当はわかっていたんだろう? 結局お前は、正義感『らしきもの』に酔っていただけだ、彼女の手を引いている時、自分がヒーローに戻れた気がした、そうやって彼女を利用していただけだ、本当は、ずっとずっと、怯えていたのだ。


膝をついていたお前に、父親は彼女を預けていたのに
お前にヒーローの資格があると、信じて


砂那は拳を握り締めた。
「砂那? ――お、おい!?」
 思い切り振りかぶり、ドアに打ち付けた。鈍い衝撃と鋭い痛みが右腕を貫き、脳が悲鳴を上げた。その電気信号がまどろんでいた脳を強引に覚醒させ、砂那の目がぎゅっと見開かれた。
覚悟を決めた。
「何してたんだろ、僕」
 これから対峙する恐ろしいものに、情けなくも声は震えていた。動揺と疑念が全身に行き渡る。体も震える。
「最初から、戦えばよかったのに。悪い奴が……はっきりと悪い奴が目の前にいたのに、どうして戦おうとしなかったんだろう」
「砂那……」
 津田が傍らで、すっかり動揺して――砂那の気が狂ったとでも思っているかのような表情で、尋ねる。
「お前……何言ってんの、つか、痛くないか、それ」
「痛いよ。殴られても、殴っても痛いのはわかってんだ。だから逃げてたのか、痛いの、嫌だから――」
 砂那はドアに頭突きをかました。
それも上半身を九十度にそり返してぶち当てるような、強烈な一撃だ。頭蓋骨が衝撃を受けてたわむのがわかった。皮膚が裂け、派手に血が噴出した。びちゃっと汚い音と共に、ドアに鮮血が飛び散る。
もう一度、ぶち当てる。
再び血が舞う。皮膚の下にあった肉がつぶれ、裂け、痛覚が悲鳴を上げる。砂那はしかし、それに構わない。もう一度、ぶち当てる。舞い散る鮮血が玄関の切れかけの蛍光灯に照らされ、羽虫だけが、静かに、羽音を立てている。もう一度。もう一度。もう一度――
「だから、やめろって! 砂那! おい! やめろ――やぁめろ!」
 気がつくと津田に羽交い絞めにされ、扉から引き剥がされていた。暗闇の中、真っ白な光にぼんやりと照らされた扉には、赤黒い放射状の円陣が、くっきりと暴力的に組まれていた。
「バカッ! 何やってんだお前! うわっ、くそ、骨が見えてる……!」
 津田は砂那の額を引っつかんで、穴が穿たれたような額のグロテスクな傷跡を睨んだ。ポケットから手ぬぐいを――きっと引越しの手伝いのために持ってきてくれたのだろう――を取り出すと、血が噴出すそこに押し当てた。
「……痛いの、思い出してたんだ」
「あぁん……!? ったくこのバカが、まだ寝ぼけてんのか」
「津田、覚えてるよ俺、卒業式の日、お前とやりあったの。最初にくってかかったの、俺だったな」
「……あぁあぁそうだよ。荒いショック療法で思い出してくれたのか?」
 そこで津田は不可解そうに手を止める。
「……『俺』?」
「怖かった。たぶん、俺はやられると思った。お前が何人も仲間を校舎裏に引き連れてるの見たんだ。喧嘩したらたぶん、囲まれて、容赦なく殴られて、倒れても蹴られて――加減なんて誰も知らなかったからな、あの頃。殺されると思ってた。わりかし、本気で」
 砂那は拳を握り、津田はそれを見た。そこからも血が滲み、砂那は無事なもう片方の手で、その傷跡に爪を立てた。抉る。ぬるぬるとぬめる血が、手首まで滴っている。小刻みに震えている。
「もうずっとぶるぶる震えてた。ずっと隠してたけど、校舎裏に近づくと足はがくがく震えるし、全身が縮んだみたいに体に力が入らない――あの時だけじゃないんだ。中学生から金巻き上げてる高校生に殴りかかった時も、トラックに轢かれた人を助けた時も、怖くてぶるぶる体が震えてた。たぶん、失敗したら死ぬんだろうなとか、痛いんだろうなとか、そんな事ばっかり考えてて」
「砂那」
 津田は砂那の肩を掴んだ。その顔を覗き込み、至極心配そうに顔を歪める。
「何があったんだよ、お前」
 砂那は彼の顔を見上げた。
「母さんを迎えに行った日、初めて俺、負けたんだ。本当は母さんが帰ってこない理由とか、わかってたんだ。全部じゃないけど、ほとんど、予想してた。母さんのいる扉の前でずっと震えてて――寒いのもあったけど、ずっと、迷ってて。だけどいつもと一緒。いつも通りに、勇気を出してチャイムを押したんだ」
 拳の傷を、もう一度、深く、深く抉る。
「初めてだったんだ。負けたの。母さんは玄関から顔も出さなかった。そのうち、見た事ない女の子とおじさんが来て、俺を避けるように部屋に入っていった。負けたんだ。初めて予想通りに、負けた」
 砂那は津田の体を押しのけた。呆然とする津田から離れ、扉に描かれた荒々しい血の一枚絵に手を触れる。
額から血が滴り、口元まで垂れてきた。砂那はそれを舌で拭い――そして、笑った。
「今回もたぶん、負けるかな」
 砂那の体の奥から、激しい恐怖の渦が巻き起こった。扉に置いた手も、目に見えて、異常なほど震える。
「強そうだもんな、鳴海カナ。父さんが負けたくらいだし、なんてたって世界中がバックについてるし」
 砂那は思い出す。きっと映画館で砂那に最後の拳を打ちつけたのは鳴海カナだ。拳が女のそれだった。着込んでいるあのスーツの効果なのか、威力は女のそれでは全くなかったが、その拳は小さく、殴りなれていないブレがあった。全く、容赦は無かったが。
 殴る事になれてはいなかったが、暴力を振るう事に一切のためらいはなかった。アンバランスな『敵』だった。だからこそ、強大な敵だった。
暴走する力を持ち、自分の行為を振り返りもしも無い。
まさしく――『悪』そのものだ。
「――戦ってやる」
 低く呟く。蛍光灯の光が、砂那の顔に影を作る。
「相打ちでもいい。あいつの体を抉って、それから負ける――死んでやる」
 震えが止まった。知らず、呼吸はずっと止めていた。ようやく吸い込んだ息がかすれて、喉の奥で、身を削られたような声が漏れた。
「アーニャ……ッ!!」
 背後から後頭部をはたかれた。
ちいさく「いて」と呟き、間の抜けた表情で振り返る。
「一人で何ぶつぶつ言ってんだお前。あほうか。ばかか。自分語りで盛り上がってんじゃねぇよ。寒いんだよ」
 津田は物凄く冷めた表情をしていた。砂那も一瞬で現実に引き戻され、なんだか寒々しい気がしてきた。その表情を見ると、津田は極めて冷静にポケットに手を突っ込み、そこからかちゃかちゃと音を立てるキーホルダーを取り出した。
原付の――津田の相棒ベスパのキーをつまみ、砂那の眼前に突き出した。
「詳しく説明しろ――なんだか知らねぇけど俺にも一枚噛ませろよ」
 にっ――と津田が笑った。久しぶりに砂那が見た、子供じみた笑いだった。