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act2<裸の女王-springs come->



全てが一変したのに、何も変わらなかった一週間が過ぎた。


 あの後――――外側の世界(アウターワールド)でのあの電気ショックみたいな体験を終えて目を覚ますと、黒瀬は眞子と折り重なるように倒れていた。彼女がぼんやりと意識を取り戻したのを確認すると、慌てて病院に運んだ。極度の脱水症状に飢餓状態、睡眠不足や便秘と重軽さまざまな症状が同時に彼女を襲っていたが、Play fun!12を破壊し、量子通信(ネットワーク)から切断すれば、しばらく入院するだけで回復するだろうと医者は言っていた。実際、彼女が安らかに寝息を立てているのを病室で見つめていると、全ては夢のような出来事のように思えた。
 一週間たった今も、その思いは消えていない。強烈な夢を見ていただけのような気がする。あの時の事を思い出そうとすると、蘇る記憶は現実よりあまりに強烈で、だけどまるで現実感がない。大歓声にビートを刻むBGM、冗談みたいに艶めかしくて強靱で、悪魔みたいな姿の眞子に――――蘇る、動かないはずの手足の感覚。ぎゅっと手を握ると、今でもその感覚が鮮明に思い出せる。今にも左手は動き出しそうで、 左足は感覚がみなぎってきそうで、……だが、いざ動かそうとすると、感覚はないし、動かし方もわからないのだ。
 握りしめた手を、ゆっくりとほどく。
 顔を上げる。視線を、遠い町並みに投げやった。
 一週間前、世界が一変するみたいな経験をしたというのに、二階の自室から見えるこの街の風景は何も変わらない。結局、現実は何一つ、変わっていない。
「……いつも見てるんですか、この景色。こんなに」
 ただ一つ、彼女をのぞいて。



「ご家族、いないんですね」
 一階に下りて、台所に向かうと、コーディはとんとんと階段を鳴らしながらついてきた。彼女はなぜか着物に身を包んでいる。ほとんど黒に近い濃紺の振り袖に、真っ赤な花びらがあしらってあって、その振り袖を白い帯でしめている。帯は色とりどりの花が刺繍され、どこか楽しげだ。髪は朱色の紐で団子に結っている。眞子を連れて行った先の病室で再会した時は白衣に身を包んでいたので、どうやら彼女はちょっとズレたファッションセンスの持ち主なのか、コスプレが好きなのか、あるいはその両方なのか……とにかく、そういう趣味か"機能"があるようだった。
「いたけど死んだよ」
 別に嫌味としていったわけではなかったので、言葉はとげとげしくなかったはずだ。彼女は返事をしなかった。キッチンで足を止めた黒瀬の前で立ち止まる。
「ずっとこの家から出ないんですか」
彼女を押しのけて、クロセはその背後にあった冷蔵庫に「卵、ボイル。スティックパック、解凍」と伝えた。冷蔵庫はうなるような駆動音を上げてそれに応える。扉を開けて手を突っ込むと、すっかりゆであがった卵と100個で一パック450円のスティックパック――棒食と揶揄される素食だ――を引っ張り出した。わしづかみにすると、がつがつと座りもせずに腹に収める。コーディが何か言いたげにしている傍らを抜けて、玄関まで出て行き、扉脇に置かれていた牛乳瓶をひっつかんでそれをあおった。
「いつもそんな食事を?」
 非難するような調子で彼女がそう言った。黒瀬は彼女を見た。表情は変わらないが、少し唇の形が歪んでいる。それに、目の色が灰色と赤にじわじわと点滅している。何か言いたげだ。この得体の知れない奇妙な同居人を、黒瀬は扱いかねていた。
 いつもなら、他人が自分の家に足を踏み入れるだけで、服の中に毒針を持った虫が入っているような嫌悪感を感じて、体が悪寒で震え上がる位なのに、彼女にはそういう悪感情があまり湧かない。
 ――理由ははっきりとはわからないが、たぶん、彼女の言葉があまりに抑揚もなく平坦で、無機質だからだと思う。まさに、彼女が自分自身で言うように、彼女はOSであり、機械なのだ。こうして間近で見る彼女は、見た目は確かになめらかな肌を持つ人間の姿をしているが、自分の脳は、彼女をただの機械として認識しているらしい。おかげで対人アレルギーも発症しないですんでいる。でなければ大変だった。なにせ彼女は、自分の脳に住んでいるのだ――切り離すには、インターフォンを切るよりずっと難儀するはずだ。
 もっとも、だからといって彼女が全くの無害なのかというと、やっぱりそうではない。
「あの」
「なんだよ」
 今度の言葉は、棘はなかったが、うんざりした気分が上乗せされていた。彼女と過ごす一週間。ほぼこうして毎日質問攻めだった。まったくノイローゼになりそうだった。最初は律儀に答えていたが、彼女の質問ときたらまるでアンケートに答えてるみたいに平坦で無機質なのだ。返事をしたとして、それに彼女が何か反応を返すわけじゃない。とにかく、一方的で、まさに機械と話している気分だった。
「……その、足」
 瞳をかしゃかしゃと色濃い群青に変えた彼女は、わずかにためらったようだった。(おそらく)おずおずと、黒瀬の義足を指す。
「義足に、したんですか」
 少し考えてから、黒瀬はなんだか奇妙な言葉だと思った。彼女の物言いに、何か違和感を感じたのだ。なんだ? 何が変だったんだろう? 違和感の答えにたどり着く前に、彼女が口を開く。「いつ?」
「……たしか、十三くらいの頃。治る見込みないし、歩くのに邪魔だったから」
 コーディは黒瀬の足をしばし見つめてから、そう、と短く応じた。彼女の視線があまりにじっと――思い詰めたように注がれていたので、動きづらくなってしまう。人工筋肉の義足がそんなに珍しいのだろうか。このバイオテクノロジーが駆使された義足は、現代においてはわりと一般的な品だと思う。人工筋肉が随意神経の電気信号に反応して動くので、自由自在に健常者と同じように動かせるという触れ込みで世間に溢れているのだが、いざ装着してみると何の事はない、動かそうと思ってから実際に動くまで、まるでしゃっくりみたいにタイムラグが生じるので、町中を歩くと、すぐに義足である事が知れてしまう。
「痛く、なかったですか」
 コーディが、視線をじっと義足に注いだままつぶやいた。瞳の色は冷たそうな青色だった。変な事を訊く奴だ。黒瀬が首を振って返すと、彼女は短く、つぶやいた。
「そう」
 瞳の色が、微かに煌めいていた。



「出かけるんですか」
 午前九時――普段だったら量子ネットを介した通信教育でも受けている時間だ。コーディがいぶかしげに尋ねるのも無理はない。こんな時間に玄関に黒瀬が立つなんてこと、祖父が亡くなる以前からもなかった。
 黒瀬はじっと、外へと続く扉を見つめていた。その傍らで、コーディが不思議そうな顔をして、身じろぎもせず立ち尽くしている。玄関の扉はすりガラスになっていて、外の陽光の日射しが、にじんだ乳白色になって、光を降ろしていた。音もなく舞う埃が、きらめいている。
 その光を見つめていると、黒瀬は自分の体から違和感がわき起こるのを感じた。その正体はすぐにわかった。震えているのだ。外の世界の光を、恐れている。まるで吸血鬼だ。陰の世界に潜む、醜い化け物――――ぎゅっと、拳を握りしめた。
 パーカーのフードを深くかぶった。それから一歩脚を踏み出そうと思ったが、体が緊張して、うごかない。こわばった筋肉が震え出す。首から上からさっと熱の気が引いて、冷や汗がにじみ出す。喉の奥で、小さく毒づいた。
 玄関脇にあった灰色の煙草入れ(シガーケース)を手にした。震える手でわしづかみにすると、乱暴に中身を取り出す。細巻きの白い包みが、ばらばらと床に転がる。なんとか一つを手のひらの上に落とすと、それを唇ではんだ。
「――待ってください」
 ライターに点した火を、口にくわえた包みに近づけようとした時だった。、急に、手を捕まれる。春先の陽光の温もりとは正反対の、朝霜みたいに冷たい手の感触。見ると、コーディが細い指をライターを持つ手首に絡みつけていた。相変わらずの無表情顔に平坦な声色だったが、目を見ると、ぎゅっと瞳が引き絞られていて、非難の色が微かににじんでいるのが分かった。
「それ、何か分かっているんですか」
 「スウィートスモークだよ」と、黒瀬は短く答えた。コーディはその大きな目でじっと黒瀬を見据えると、ゆっくりと、桜色の薄い唇を動かす。 
「それは、麻薬ですよ」
 そんなことは分かっていた。
 21世紀初頭まで、この国では大麻と呼ばれていた麻薬が、このスウィートスモークの出自であるのは、今時小学生でも知っている事だ。深い鎮静効果、多幸感、ゆるい無気力感をもたらすこの"甘い煙草(スウィートスモーク)"が解禁されたのは、黒瀬が生まれる前、戦争後に大量に外国人が流入してきた時代だった。政府の機能が見直され、規制が緩和された結果、大麻は16歳以上なら誰でも吸える嗜好品になった。昔ながらの愛煙家(オールド・スモーカー)は無煙煙草(モスレム)やこの甘い煙草(スウィートスモーク)を子供の吸う物と敬遠するが、精神に作用する効果は煙草よりずっと強いので、愛煙するというよりは依存するように好んで吸う人間は多かった。
「合法だろ」
 黒瀬はコーディのひんやりとした手を振り払い、包みに火をつけた。ゆっくりと、深く、煙を吸い込む――――コーディが目を押し開いてそれを見つめていた。次第に体の緊張が解け、震えが収まった。右手をかざしてみると、痙攣しているかのようだった手の震えが、だんだんと小さくなるのがはっきりとわかった。
「いつも吸ってるんですか」
 背後でコーディがそう尋ねた。黒瀬はゆっくりと息を吐いて落ち着くと、玄関に脚を踏み出した。今度は動いた。ランニングスニーカーに足を突っ込み、靴紐を結びながら
「昼間に、外に出る時とか、震えがきつい時とか、そういう時だけ」
「外に出るのに、薬に頼っているんですか」
 矢継ぎ早に質問。またこれか――彼女の声色には棘もないし、咎めるような調子でもなかったが、うんざりした。ただの質問なら、いい。だけど自分のしている事に、口を出されるのには我慢できなかった。一々誰かに指図されるのが嫌で、この屋敷に籠もっていたのだから。
「うるさいんだよ、お前」
 言葉を選ぶのが面倒で、一番短くて棘の鋭い言葉を投げつけた。フードを深くかぶり直し、陰の世界の空気を吸い納めるように大きく深呼吸して、玄関を出た。
 背後から、彼女がついてくる気配がした。


    






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