リングに次のプレイヤーが現われた。
世界ランカーのことごとくを倒した挑戦者にあてがわれたのは、世界最強のプレイヤー、エンパイア・プラム。196センチの巨体に引き締まったむき出しの肉体、軍用のカーゴパンツとブーツを履き、顔には無数の傷、禿頭、体にはチャンピオンの証であるベルトを肩がけにかけていた。落ちくぼんだ目の奥で光る鋭い眼光が挑戦者をとらえる。眞子は、二、三人殺してきたかのような荒んだ目でそれをうけとめた。いよいよベルトを掛けた闘いが始めるのだ。おあつらえ向けに挑戦者の死へのタイムリミットは残り五分を切った。おそらくはこれが最後の闘いになるだろう。それを悟った観衆は、いよいよ最高潮に達して雄叫びに近い歓声を上げた。マイクコールが高らかにプラムの名を叫ぶ。ワールドファイトクラブ史上最も強い男が、命を賭して現われた挑戦者にいよいよ応え姿を現した! 知らぬ者のいない歩く核兵器! ご存知、エンパイァァァァァァァァァ――――
しかしそこまでコールがかかった所で、プラムの姿は突然歪んだ。観衆がざわつく。リングの中央に歩み出て、肩を回していたプラムの姿は、まるで四角く切り取られたかのように歪み、左右にぶれる。プラムを取り囲む四角い空間が灰色の砂嵐に染まり、点滅を繰り返してから、突然電源が落ちるように彼の姿は消え去った。
代わりに一人の男が立っていた。
全身、真っ黒だった。真っ黒なゴム質のスーツが緩く彼の全身を包み、真っ黒なハーネスがそれをきつく締め上げている。足下にはわずかにだぼついた裾を縛り上げる編上げブーツ。肘当て、膝当て、グローブに、弾倉やグレネードがいっぱいに詰まったベスト、それら全ての装備を、真っ黒なレインコートが滴るように包み込んでいる。
顔にはガスマスク。
彼はゆっくりと呼吸していた。まるで、自分がそこにいる事を、確かめようとしているかのように。会場は静まりかえり、静かに肩を上下させる彼を凍り付いたように凝視していた。呼吸をしていなければ、彼はまるで彫像だった。ポケットに手を突っ込んで、顔をうつむかせて立つ彼は、ファッション誌の表紙か、スタイリッシュなモノクロームの絵画のようにも見えた。
「…………イジェクター?」
どこかで誰かがささやいた。その小さなささやきは、枯れ果てた草原に投げ入れた火種となって観衆に火をつける。イジェクター? イジェクターなの? 疑問の声はすぐに確信の唱和に変わった。イジェクター、イジェクターだ! 唱和はすぐに歓声に取り込まれた。いつの間にか止まっていたビートのBGMが高らかに響くと共に、その唱和は会場を席巻した。
自分を取り囲む歓声に、イジェクター――黒瀬は圧倒されていた。引きこもりから一転、待ち受けていたのは大歓声だ。眠っていた感覚が雷に打たれたみたいに呼び覚まされる。久しく味わった事のない、みなぎるような感覚が全身にふつふつとわき起こった。コーディは「イジェクターはアウターワールドの救世主」と言っていた。もしかしたら、観客は皆イジェクターの存在を既に知っているのだろうか。だとしたら、責任重大だな、そう思う。
『ゲーム、始まります』
緊張した声がした。再び宙に浮かぶ半透明の妖精になったコーディが、黒瀬の視界に滑り込んできた。
『時間は五分間、その間に相手の体力を0にして、彼女をゲームオーバーにしてください。これが唯一の勝利条件です。ただし、逆にこちらが体力を0にされたり、タイムオーバーした場合は、彼女の中毒症状(アウターホリツク)に取り込まれて』
心中か。
言葉にせず、そう思っただけだったが、コーディにはそれが伝わったようだった。彼女は急速冷凍したみたいな表情をこくりと動かした。
向かいのコーナーを見ると、もたれ掛かっていた眞子が、身を起こした所だった。一瞬だけ、凄惨な笑みを浮かべていた気がする。
右半身を前にして、半身の体勢を取る。麻痺の残る左半身は動かない。この不利な条件を覆すために、一気呵成に襲いかかって終らせるつもりだった。対する眞子はモデルみたいに腰を艶めかしく揺らしながらリング中央に歩み寄った。豊かな胸を強調するように背伸びする。いかがわしい歓声が上がった。馬鹿な事はやめろと叫びたかったが、彼女の目はあの瞳孔が開閉するとりつかれたような瞳をしていて、言葉は届きそうもなかった。黒瀬は祈るように心に誓った。助けてやるぞ……本当に。
「お前を、排出(イジェクト)する」
小さくつぶやく。マスクに押しつぶされてくぐもったその声が、耳に届いた。
コングが鳴った。
次の瞬間、人間離れした動きで眞子の体が視界の内から消えた。
『下がって!』
コーディの声にとっさに反応し、慌ててバックステップを踏む。すると砲弾のような速さで黒い影が下から上へ消えていった。眞子の体は、瞬きの間もなく黒瀬に肉薄していて、今の砲弾は彼女の放ったアッパーだと気づいた時には左のフックが迫っている。態勢を立て直す暇はない。バランスを崩すのを承知で右腕の肘を迫る拳に叩きつけて防御。何とか防ぐが眞子の連打は止まらずに右の肘打ちが迫ってきていた。左足を上げてわざとバランスを後方に倒す事でなんとかリーチの短いその攻撃はよける事ができたが、背中はもうコーナーロープに当たってしまった。それに気をとられたのが命取りだった。眞子はからぶった右の肘打ちを返しざま、腕を振って黒瀬の頭をなぎ払う。格闘術でも何でもない粗雑な一撃だったが、頭にハンマーでも叩きつけられたような衝撃が走った。意識に空白ができる。目は見開かれ、呼吸が止まった。
たたらを踏んだ黒瀬に、眞子が歩み寄った。駆け寄るわけではなく、歩み寄る。なめられているが、黒瀬に反発する力はなかった。彼女の蹴りが見えたが、よける事はできず、もろに鳩尾につま先が入った。胃液をはき出しそうになったが、理由のわからない力で腹の底に押し戻された。不快感に何度もえずく。くらった衝撃は、とても女のものとは思えず、大人の男とて余程訓練を積んでいなければこんな重い一撃は与えられまい。
『こちらのライフが20%減少、位相電位を抑制中――――彼女は現実の彼女ではありません、油断しないで!』
黒瀬は致命的な思い違いをしていたのを思い知った。ここはアウターワールドであって、現実の世界の法則は何一つ通用しない。現実と同じようなリーチの取り方や、攻撃の重さの予測は、何の意味もない。目の前にいるのは、二日と二十三時間五〇分以上勝ち続けてきた化け物じみた歴戦の強者であって、義理の妹でもなければ、気弱なウサギでもないのだ。
え、弱いじゃん……。そんな困惑の声が観衆から漏れた。返す言葉も、余裕もない。
眞子は黒瀬の首をつかむと、軽々と持ち上げた。自分の体重が喉にかかる苦痛は想像以上で、まるで顔面に肉を注入されているかのように顔がぱんぱんに腫れ上げるのが分かった。眞子は目玉が飛び出しそうになっている黒瀬の喉に唇を寄せると、次の瞬間突然かぶりついた。
視界が真っ白に染まった。
『急速にライフ減少中! 感覚受容体pk3の振動異常値! 敵のコード属性で三秒間動けません!』
刺激過多な真っ白な世界の中で、自分がおもちゃみたいにぶるぶる震えている感覚があった。
『残りライフ25%を切りました! 一時的に感覚受容を全て制限して麻痺の解除を試みます……統合知覚体を再構成、随意神経ルートを確保したまま三者視点へ。3、2、1…今ッ!』
不意に体から感覚が失われ、意識が宙に浮いた。気がつくと黒瀬は自分の体を天井から眺めていた。幽体離脱……? 世迷い言は信じない口だったが、どうもそのようにしか思えない。抜け殻の体が悪魔の姿の眞子に首筋をかみつかれビクビクと痙攣している。その体に戻ろうと右手を伸ばすと、眞子につり上げられている体が動くのが見えた。右手を伸ばしている。もしかして宙に浮いているのは意識だけで、体は自分の意志で動かせるのか?
「(――――反撃してやる)」
次の瞬間黒瀬は首筋にむしゃぶりつく眞子の頭に右足を絡めた。その感覚はまるでラジコン操作だ。重心移動を利用して彼女に全体重をかけ、体をひねる。彼女は声なき悲鳴を上げて、二人分の体重を支えきれずにバランスを崩して倒れた。
マウントをとった。
その瞬間、急ブレーキを駆けられたような衝撃と共に、意識が体に戻る。
眞子が獣のような表情でこちらを見上げている。その息づかい、組み敷いた体が抵抗するのを感じる。
拳を振り上げた。
黒瀬は馬乗りの体制から、闇雲に顔面に向けて拳を振るった。容赦をする必要はないと思った。血しぶきが舞い鼻の骨が折れる音がしたが、そんなものにはかまってられなかった。目がつぶれ、咽喉をつぶし、喉に血が詰まって死ぬまで繰り返す。
が、片足だけの拘束ではやはり無理があったのか、彼女は十発も食らう前に黒瀬の足の下から抜け出して、曲芸師のようにバク宙で体を起こすと、獣のようなバックステップで距離をとった。黒瀬ものろのろと立ち上がり構える。眞子の顔はまったく崩れていなかった。きっと血みどろで見るも無惨だろうと思ったが、彼女はまるで痛みも感じてない風に額から垂れた血を舌でなめとっていた。右の眼窩からも血が垂れ、まるで血の涙を流しているようでもある。後は少し、青痣がついている程度か。おそらくは、ゲームの仕様として、あまり顔は崩れないようにしてあるのだろう。それがわかる位には、黒瀬はアウターワールドに順応していた。
『良いセンス』
コーディが現われて、瞳をエメラルド色にきらきら輝かせて言った。すぐに表情をただし、
『ですが片腕片足では限界がありますね。以前導入されたPlay fun!12に干渉して脳の四肢運動野の麻痺を取り除きます』
「ッほ、げは……」
黒瀬は荒い息をしている。声はかすれ、冷静さからはほど遠かった。眞子と比べても、いまだ劣勢なのは明らかだった。
「――――余計な、事すんな」
『既に修正を始めています。時間を稼いでください』
何か反論しようと思ったが、口から出たのは血のかたまりだけだった。どうせ左手と脚が動いた所で、今までろくに動かした事がない手足をまともに動かせるとは思えない。もっとも、このままではじり貧なのは分かっている。
コーディが、はっと顔を上げた。
『来ます!』
クロセがもうろうとする意識をつなぎ止めて眞子に眼を向けると、眞子は腰にかけていた鞭を手にしていた。彼女の手の中でそれが輝き出す。
『正面! スライドステップしてッ!!』
コーディが叫ぶ声が聞こえたが、体は動かなかった。鞭は獲物に襲いかかる蛇のようにのたくって瞬きする間もなくクロセの喉に絡みついた。
次の瞬間一気に首が絞まり、わけもわからぬうちに足が地面を離れた。冗談のような光景だった。頭に一気に血が上り、真っ赤になった視界(レツドアウト)の中で見たのは、遙か彼方地上に見える鞭を振り回す眞子の姿であり、つまり自分の体は彼女に軽々と振り回されていたのだった。右へ左へ振り回され、地面に叩きつけられ、その度に体に鋭く重い衝撃が走った。肺から空気が何度も押し出され、体からはすっかり酸素が無くなった。何度も血を吐き、胸骨が何本か折れた音がした。
最後に放り出された黒瀬は、リングサイドに叩きつけられた。すさまじい砂埃が彼を包み込み、観客達が悲鳴を上げてその煙から逃げ出した。
ジャッジがカウントをとろうとすると、眞子は鞭を振り回し始めた。悲鳴にも似た、イジェクターを呼ぶ声が観客の間から漏れ聞こえたが、彼が立ち上がる様子はなかった。
ジャッジが8カウントまで数えた時、眞子は鞭を土煙の中へ叩きつけた。とどめを刺したのだ。誰しもが思った。手応えを感じたらしい彼女は、引き寄せようと一気に鞭を引っ張った。
しかし、鞭がイジェクターを引き連れてくる事はなかった。何かが引っかかったように、鞭はぴんと伸びたまま戻ってこない。眞子はいぶかしげに、何度も引っ張った。土煙が晴れる。人影が現れ、眞子の目が見開かれた。
イジェクターが鞭を両手で掴んでいた。
眞子はぎょっとする。その一瞬の隙を突いて、黒瀬は一気にすさまじい力でそれを引き寄せた。眞子は悲鳴も上げられずにイジェクターへ吹き飛ぶ。黒瀬はもはや物理運動など無視してロケットのように飛んできた彼女に合わせて、限界まで引いた右腕を渾身の力を込めて彼女の顔面に叩きつけた。その小さな顔をわしづかみにすると、突進してきた力をそのまま直角に曲げて、曲芸のように地面に叩きつけた。
ぶしッ――と、口をふさいだ蛇口のように血が宙に舞った。
硬く踏み固められた地面は打ち付けられた彼女の衝撃を受け止めることなく、ダイレクトにその顔面に返した。鼻がへし折れ、皮膚が裂け、目がつぶれ、頭蓋が割れて頭血した。赤や、照明の色に染まった様々な液体がまき散らされ、くぐもった悲鳴が一瞬だけ会場に響いた。
歓声はかき消えていた。誰もが息を詰まらせたみたいに押し黙っていた。
その静寂を裂くように、イジェクターは歩き出した。倒れ臥した眞子の体を背にして、リングの外へと向かう。
『動く手足の感覚はどうです』
彼の視界でコーディが舞い踊りながら、目をエメラルド色にきらきら輝かせて言った。
『悪くないでしょう?』
黒瀬は答えなかった。ぴたりと立ち止まる。
観客席から悲鳴が上がった。まるでゾンビのように、眞子がふらつきながら立ち上がったのだ。その瞳を真っ赤に輝かせ、鋭い歯をむき出しにする。両腕を突き出して黒瀬の背に襲いかかる。
黒瀬が口を開く。
「オーバークロック」
× × ×
黒瀬家の屋敷地下、すり鉢状のドームの中で演算装置が立ち並ぶその場所に、再び光が宿った。無数の機械群が静かに駆動音をあげ、チカチカとステータスランプを点灯させる。暗闇の中で、演算装置の群れがはき出す駆動音とランプの明滅は、まるで銀河が地上へ落ちてくる前触れのようだった。そしてドームの中央、一際大きな柱状の演算装置に光が収束すると、柱に稲妻のように光が走った。
× × ×
その瞬間、黒瀬は世界が酷く無力なものに成り代わったように感じた。いつも絶対的だった世界は、今や手中にあった。自分が思うように――例えば、自分以外の時間をはるかに鈍化させて、全てをスローモーションのように進ませる事すら出来た。背中から襲いかかる眞子の姿を振り返りざま片目で確認する。常人では反応できない速度で襲ってくる眞子だったが、今や黒瀬は常人ではなかった。彼は、今、この瞬間、この世界のあらゆるルールを超越していた。誰よりも早く動く事が出来たし、誰よりも早く感じる事が出来たし、誰よりも早く、敵を打ち倒す事が出来た。
体をヘアピンみたいに曲げた黒瀬が振り返りざま放ったハイキックは、眞子のつきだした両腕の間をすり抜けて、すさまじい力で彼女の側頭部に叩きつけられた。頭蓋は今度こそ、内容物を破裂させながらへし折れて、血をまき散らした。インパクトの瞬間、黒瀬が知覚する現実の時間が元に戻る。クリアになった感覚が、激しく打ち鳴らされるコングの音を拾う。リングの上に、巨大な文字が浮かび上がった。
K . O .!!!!!
限界までふくらませた風船が炸裂したみたいに、観客達が立ち上がって大歓声を上げた。リングの上に立って、じっと挑戦者を見つめていたイジェクターは、自分を褒めたたえるその歓声に応える事もなく、むしろ、まるで自分の身を切り裂いたみたいに呆然と、倒れたアウターホリッカーを見つめていた。宙から突然現れた真っ黒なレインコートが――まるで誰かがその肩を抱いたように――彼の肩にかかると、彼は身を翻し、リングの外に姿を消した。
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