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 突然、足裏の床の感覚が消え失せ、硬い地面にたたきつけられた。
 腰を強打して、呻く。
 コンサート会場のような、すさまじい騒音が当たりを取り囲んでいた。呻きながら身を起こすと、無数の足が見えた。スニーカーやブーツ、ハイヒールと種々様々な靴が飛び跳ねている。どこからか照らされるオレンジの光が狂ったように足と足の間を泳いでいき、巨大なスピーカーから打ち出されたと思しきビートの音が延々と辺りにとどろく。人々はトリップ状態で跳びはね、歓声を上げていた。滑らかな打ちっぱなしの地面がまるで脈打っているかのように揺れる。
「起きてください」
 立ち上がろうと膝をついたところで、手がさしのべられた。いつの間にか、コーディが眼前に立っていた。黒瀬は乱暴にその手を振り払って立ち上がる。
「お前、何やったんだ!?」
 辺りが騒然としていて自分の声も聞こえない。怒鳴る黒瀬に、彼女は平坦な声で
「アウターワールドへお連れしました。あちらを」
 さっと明後日の方向を指さした。
 どうやら、ドーム状の会場にいるようだった。天井に設置された無数のライトがオレンジの光を走らせていて、その光に照らされた観客達が、歓声と共に飛び跳ねている。まるでロックコンサートだ。観客席はドームの中心に向かって逆円錐状になっていて、その中央にあるのはボクシングでみるようなリングだった。もっとも、土を盛りつけて踏み固め、その周りをコースロープで囲っただけの、随分と粗野なリングだ。そこで二人が殴り合いの対戦をしていた。
 一人は長い赤髪でボンデージみたいな衣装を着て、背中にコウモリの羽をはやした女。もう一人は上半身裸でボクサーパンツ一丁の黒人。その戦いは一見ボクシングに見えるが、どうも違う。ボクサーパンツの黒人が拳を振るうと、手元で何かが爆発したかのように炎が炸裂する。女の方は羽を使って時折重力を無視したように宙を舞い、とんでもないサマーソルトキックをかましたりしている。総合格闘技、としてくくるにはには無理があるだろう。一体、あれは何だ?
『ワールドファイトクラブへようこそ』
 突然、黒瀬の眼前にタスクウィンドウが起動した。Warld Fight Clubという文字がおどろおどろしく描かれ、拳が打ち合っている映像が流れた。女性の音声案内が映像に合わせて解説を始める。
『全世界、三二〇〇万人を熱狂の渦に巻き込んだ格闘ゲーム、ワールドファイトクラブ。ここでは日々腕に覚えのある挑戦者たちがリングに上がり、血湧き肉躍る闘いを繰り広げています。参加は簡単。ワールドファイトクラブ付属のクリエイトソフトを起動して、四万八千のパーツから自由にキャラクターを作成してください。あなただけのファイティングスタイルができあがったら、後は挑戦者に名を連ねるだけ。三千二百万人のプレイヤー、そして最強の世界ランカー達があなたの挑戦を待っています!』
 世界ランカーと思しき人物達がテーマミュージックと共にタスクウィンドウに現れる。『エンパイア・プラム』、『マスター・チャン』『スカウト・ジョー』『不死鳥・アウレリウス』――――次々と現れる世界ランカーの中に、今リングで戦っている男の姿があった。『ブラスト・トム』……ボクサースタイルのファイター、必殺のブラストパンチが敵を粉砕! とある。
「挑戦者を」
 非現実的な事ばかりでくらくらしていると、不意に耳元でコーディの声がした。ぎょっとしてそちらに目を向けると、薄いスカイブルーの半透明になった彼女が、まるで幽霊みたいに宙に浮いていた。
「お前……眞子の所に戻せよ!!」
「戻っても無駄です」
「無駄って――」
「あの世界にはアウターホリッカーを救出する手段は何もありません。救急車を呼んだ所で、柔らかいベッドが用意されるだけで、30分もしない内に彼女は死にます」
「そんなの……そんなの信じられるかよ! ここから出せ!!」
「あれを」
 コーディが指さすと、まるでそこに巨大なレンズが現れたみたいに黒瀬の前の空間が歪んだ。うぉんうぉんとわけのわからない歓声を上げて飛び上がる客達の姿はレンズ越しに消え、リングがズームアップされた。
 『ブラスト・トム』が蹴り上げられるのが見えた。自慢のブラストパンチも挑戦者の女にことごとくガードされ、たたき落とされている。黒瀬の位置からでは女は背中しか見えないが、体の細さの割にすさまじいパンチを放っているのはわかる。どうやらこれはあくまでもゲームであって、体格そのほかの要素は実際の攻撃とはまったく関係ないようだった。
 女の肘打ちが、ブラスト・トムの顎をとらえた。
 トムが大きく体勢を崩し、ふらついた。大歓声がわき起こる。女は極めて冷静にブラスト・トムに接近して、その喉をひっつかむと、そのまま宙に持ち上げた。自分の体重で首が絞まり、ブラスト・トムが目玉を飛び出させんばかりに目をかっぴらく。女はその頬にキスをすると、突然鋭い歯をむき出しにして首筋に食らいついた。その白く細い喉をごくごくと蠢かせる――――血を啜っているのか……?
 ビクビクと震えるブラスト・トムの体。その顔から生気が失われ、目がぐるりと白目を剥く。干涸らびたその体が床にたたきつけられると、挑戦者をたたえる歓声が会場にわっとひろがった。女は歓声に舞うように応え、コーナーに戻ろうと振り返った。
 黒瀬の目が見開かれた。
 最初、黒瀬は目をしばたかせて、目にした物がよくわからずにきょとんとした。あいつ、なにやってるんだ……? かすかにそんな事をつぶやいた。
「おい……これ……」
 唖然として、思わずかすれた声が漏れた。言葉の続きが出てこない。目の前の現実を――信じられないが、『現実』をみつめつづけるしかない。
「既に彼女は生体データで脳の17パーセントが機能不全に陥っています。それに――――」
 見間違いかも知れない。黒瀬は人混みをかき分け、体を滑り込ませ、必死にリングに駆け寄った。リングに飛びついて、挑戦者の女の顔を見あげる。女はただ静かにコーナーにもたれかかっていた。燃えるような赤髪が闘いで乱れ、それが後光のように彼女の背後でうごめいている。体のラインが出るようにぴったりと張り付いたワンピーススーツ。真っ赤な髪に合わせた紫のルージュもひいていて――――こんなふしだらな姿は、普段からは想像もつかない。
「何やってんだよ――眞子!?」
 新たに現れたチャレンジャーに殺伐とした目を向ける彼女の顔は、紛れもなく、義妹の、眞子のものだった。真っ赤な髪や、目、唇、表情、どれも彼女のものではなかったが、あの骨格や、肌や、かもし出される雰囲気が、どこか弱々しい独特のそれとまったく同じだった。
「叫んでも無駄です」
 眞子の名を何度も呼ぶ黒瀬にコーディがそう言った。
「アウターホリック状態ではゲームのプレイが全てで、他には何も反応しません」
 冷静な彼女の口調が気に障った。目の前の現実も――現実?――理解できない、信じられない。黒瀬はただ、彼女に怒鳴るしかなかった。
「お前がやったんじゃないのか!?」
 コーディは、まるで哀れむような目で、黒瀬を睥睨した。
「アウターホリックに陥る原因は一つだけ。現実世界の、仮想世界に対する優位性が失われた時です。現実の苦痛が、現実と空想の逆転を呼び起こす」
 黒瀬が何か言いつのろうとすると、彼女は「つまり」とそれを先んじて言った。
「これは無意識の自殺です。現実の苦痛が、彼女をアウターワールドへ追い込んだ」

 現実の、苦痛
 彼女は、家族を欲していた。
 今朝の記憶が蘇る。これまでに何度かあったのと同じような彼女の食事の誘いを、もう二度と来ないよう、手ひどい言葉で拒絶した。たしかにそうした――だが、それが、彼女を自殺に追い込んだ? そんな簡単な事で? 彼女が死ぬ?
 恐ろしい予感で冷たい汗が額を滴る。自分が見ている現実の向こう側には、生きている人間がいて、そこには、自分ではどうしても見えない陰があったのではないか。眞子は少々落ち込んだだけのように見えた――――だがもしかしたら、彼女はその陰で苦痛にもだえていたのかも知れない。突然家族を失った悲しみを抱えきれずに、一人で泣き崩れていたのかもしれない。その彼女が幼子みたいに差しだした手を、自分は――――
 コーディは真っ赤なタスクウィンドウを空中から取り出して、黒瀬に見せる。14:56と表示されていた。
「時間がありません。もし――――彼女を助けるのなら」
 彼女を助ける?
 俺が?
 途端、その事実が突然と実体をともなって黒瀬に襲いかかってきた。残り十五分で彼女は死ぬ。それを止めるには、自分がわけのわからないヒーローになって彼女を救わなくてはならない。このリングの上に立って、彼女を打ち倒さなくてはいけないという事か? そうしないと、死ぬ? 彼女が? そんな事、できるわけない。 片手も、片腕も動かないのだ、そんな事、できるわけ――――
「俺は……」
 コーディが黒瀬に目を向ける。彼はうつむいたまま、恥辱にまみれて身動きできないみたいに、じっと立ちすくんでいる。
「俺は、日の下にいちゃ、いけない人間、なんだ。昼の世界の人間じゃない。日陰者の、陰の世界の住人なんだ。俺みたいな奴が、昼の世界に手を出す権利ない。俺はただ、陰にこもって、じっとしているべきなんだ。あの屋敷で、一人で――――」
 自分でも何を言っているのかわからなかった。全身が無力感に飲み込まれる。できるものか、誰かを助ける事なんて――――胸の内で、誰かが囁く声がする。今までお前が誰かを救った事なんてあるか? お前は自分一人で生きる事すら出来なかった。助けられる側だったんだよ、お前は。そんな人間が、眞子を救う? 自分の事すら満足に出来なかったお前が? 無理だ。あきらめろ。今までだってそうしてきたんだ。腕も足も動かない自分を哀れんで、昼の世界を拒否しただろ? 未練たらしく誰もいない明け方にランニングなんかして、昼の世界にあこがれていたくせに、義妹がさしのべた優しい手を、つまらないプライドのために振り払っただろう? お前は逃れられない檻の中に自分から入ったんだ。誰の救いの手も期待できず、誰かに手をさしのべる必要もない、自分勝手で、一人っきりの檻の中に。
 お前は、陰の世界の住人なんだ。
 お前は誰も助ける事なんて出来ない。
「ここは外側の世界(アウターワールド)」
 コーディの声が凛として響いた。
「昼でも陰でもない。あなたが何者であったのかなんて関係ない――――ここは現実の外側にある世界(アウターワールド)なんです」
 導かれるかのように、黒瀬が顔を上げると、コーディは黄金色の瞳を静かに輝かせていた。
「ここにあるのはたった一つの事実だけ。この世界にも、現実の世界にも、どこにも、アウターホリッカーを救える者はない。救急車を呼んだって彼女は助からないし、警察を呼んでも、軍隊を呼んでも、彼女は救えない」
 コーディは言った。
「あなたです、排出者(イジェクター)。あなたにしか救えない」
 彼女の後ろで、新たなチャレンジャーが地面に叩きつけられた。悪魔のような姿の眞子は、それを冷たい視線で見つめていた。会場を大歓声が包み込む。その瞬間、黒瀬の聴覚はまるで機能しなくなった。空っぽの空間に放り出されたみたいだった。無音。静寂。沈黙の世界。
 やれるのか、俺に。
 何か根源的なものに突き動かされて、体が震え上がった。恐ろしくもあったし、浮き足立つような感覚にも似ていた。
 ――――きっと、イジェクターの遺志でしょうから
 コーディの言葉が蘇る。祖父の遺志。一度途切れたその意志の先に、自分は立っているのではないか。足が震え出す。緊張感で体は言う事を聞かない。だが、それは今や恐怖によるものだけでないと思った。拳を握りしめた。今、始まろうとしているんだ。理由も目的もわからない祖父の意志が終わりを告げ、その道は自分に譲られた。一歩踏み出す勇気があれば、その道を――――あの屋敷の外へと続く世界に、足を踏み入れる事が出来る。
 コーディ
 かすれた声が出た。
「どうすればいい」
 彼女はじっと黒瀬を見つめると、かすかに口元をもたげた。

「どうぞ――これからよろしくお願いします。排出者(イジェクター)」

 彼女は勢いよく、ばっと腕を振るった。トレンチコートの裾がばたばたと音を立てた。右から、左へ、まるでカーテンが開かれたかのように、辺りの風景が暗闇一色に塗り替えられる。喧噪もけばけばしい光も観衆も消え去り、闇の中に漂うのは、黒瀬とコーディだけになった。
「ゲームオーバー条件は『体力が0になること』」
 彼女は両手を開いた。するとその両手の間に、いくつもタスクウィンドウが連なった帯が現われた。ウィンドウに向けた彼女の目は一気に瞳孔が開き、瞳の最奥に黄金色の輝きが現われた。その輝きがちらちらと輝くたび、帯に並べられたウィンドウは素早くスライドしていく。すさまじい早さだ。まるで印刷機械が無数の用紙を大量に刷っているみたいだった。
「彼女を救う(イジェクトする)にはこのゲームオーバー条件に彼女を追い込まなくてはいけません」
 彼女は濁流のようにスライドしていくウィンドウからいくつもの黄金色に輝くウィンドウをすくい出し、それを丸める。そして彼女が黒瀬に指を向けると、その光の球体が一筋の光線となって黒瀬の頭に飛び込んできた。思わず目をつむりそうになるが、体の自由がきかなかった。
「本ゲームに使用するキャラクター及び格闘スタイルを設定中……前イジェクターの経験を元にして、参考になりそうな経験をインストールしています」
 突然、体の感覚が鋭敏になった。体が軽くなるような感覚が、頭に刷り込まれる。奇妙な充足感が、黒瀬の脳を揺さぶった。
「プレイ中、任意のタイミングで『テラ』を使用し、約三秒間データの高速処理を行う事が出来ます。ただし一度使用すると再稼働に24時間が必要になるため、実質ゲーム一回につき一度の使用が限度になります」
 テラ? そう思うだけで、なぜか彼女にその意思は通じたようだった。瞳を紫色にぺかぺかと輝かせて、わずかに口元をもたげる。
「つまり困った時はこう叫んでください『オーバークロック!』――できるだけ、大きな声で」
 なんだ、それ。そんな恥ずかしい真似できるか。憮然とする黒瀬の頬を、コーディはかすめるみたいに撫でた。驚く黒瀬を尻目に、彼女はふわりと宙を舞い踊ると、
「インストール完了です」
 そう言いながら、空中でハイタッチするみたいに手を動かすと、帯はさっと彼女の前から姿を消した。それから、彼女は両手を、壊れやすい何かをそっと受け取るように胸の前で合わせた。彼女の手の中に、黄金色の粒子が煌めいた。
「最後に確認します。一度なったら死ぬまでやめられません。また、ゲームオーバー条件を達成できなかった場合には、あなたも彼女の中毒症状(アウターホリツク)に取り込まれ、死亡します。それでもよろしいですか?」
 彼女の手の内に現われたのは、あの傷だらけのガスマスクだった。無骨なゴム質の外装に、無機質なレンズ、口元を覆うリブリーザー。これをかぶるのが、最終承諾という事か。

 祖父がどういうつもりでこんな真似をしていたのかは、わからない。
 ヒーローごっこがしたかったのか、強い使命感があったのか、妄想の果ての奇行だったのか。祖父を知ろうとすれば知ろうとする程、祖父の姿は遠のいていって、今になってもその本意は知る由もない。イジェクターが、祖父にとってどういう存在だったのか、アウターホリッカーを、なぜ救わなくてはいけなかったのか、そして、本当に殺人の構造を仕組んだのは、彼なのか――――麻戸刑事が来てから生まれた疑念は、いまだ何一つ解明されていないのだ。
 だが、今ガスマスクを手に取ったこの瞬間、その答えが一つ解けた気がした。
 コーディは、今や芸術細工みたいな不可思議な均衡を保った笑みを浮かべている。人形が浮かべる笑みというのは見た事はないが、コーディの表情を見ていると、ショッピングモールのマネキンはみんな揃って笑みを浮かべるべきだろうと思う。つくづく、奇妙な機械だ……おかしな祖父の忘れ形見。いずれにせよ、これ以上祖父の謎を解く手がかりは、こいつだけのようだ。飛び込んで、みるか。そう思う。
「やってやる」
 大きく息を吸い込んで、手にしたマスクを顔に押しつけた。
 世界が反転し、意識が吹き飛んだ。






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