Eje(c)t







 意識が突然急浮上した。


 光の届かない深海から、一気に引き上げられたかのようだった。何が何だかわからず、あたりを見渡しているうちに、自分が今までずっと息をしていなかった事にようやく気づいて、慌てて空気を吸い込んだ。だが、思うように空気は喉を通らない。まるで、口と鼻に綿でも詰められたかのように息苦しい。その上、呼吸する音がくぐもって頭に響く。むせながら、ずいぶんな時間をかけて、なんとか体に酸素を行き渡らせた。
 身を起こすと、そこは見た事もない、巨大なドーム状の中心部だった――――いや……頭を振って、意識をはっきりさせる。いや、見た事がある、この光景――――はっと思い出す。何を言っているんだ、祖父の部屋から続いていた、得体の知れない巨大な地下施設じゃないか。辺りを見渡し、寝ぼけていた自分の感覚を呼び起こす。
「…………」
 何かが、違う。
 違和感があった。記憶の中のあのドームと、今目の前に広がるこの光景は、どこか一致しない。なんだ、なにが……違う。そう、例えるなら、息づかいだ。この空間には、息づかいを感じる。自分だけの物じゃない。まるで、この空間全体が生きていて、じっと息を殺してこちらを見つめているような――――
 背後で音がした。
 硬質のブーツのかかとが、硬い床を踏みしめる音。人の気配なんてまるで感じていなかった。思わずはじかれるように振り返り、そして、身動きできなくなった。手がかかるような距離に、人の丈ほどの巨大な黒い滴りがたたずんでいたのだ。
 まるで墨汁を垂らしたような人影だった。薄暗いドームの陰に滲んでいる。息もできない黒瀬に、影はにじり寄ってくる。水の底から浮かび上がってくるように、顔面と思われる部位がせり上がってきた。思わず一歩、下がった。その顔は、祖父の部屋で見つけたあの、髑髏だったのだ。
 髑髏は黙って黒瀬を見つめていた。死神だ。そう思った。黄色やどす黒い染みのついた髑髏はとうてい作り物には出し得ない現実(リアル)さがむき出しだった。黒いフードで顔を隠すのも、昔本の挿絵で見たものとそっくりだ。ぽっかりと開いた目が、見透かすような目を向けている。息が詰まった。
「イジェクター」
 死神は低く、しわがれた声で――――いや、違った。
 低くもなければしわがれてもなかった。ソプラノの、綺麗な声だった。外見とはえらくギャップのある声だ。なんだ、こいつ。パニックを起こしかけていた黒瀬はすんでの所で立ち止まって、困惑した。
「――――だ、誰だ、お前」
 かすれた声で、やっとそれだけの声が出た。髑髏はじっと黒瀬を見つめていた。髑髏に覆われていて、表情は読み取れない。だが、向こうも困惑している雰囲気だけは伝わってきた。無言で黒瀬に歩み寄ってくる。思わず後ずさるが、向こうの方が歩くのは速かった。
 その姿は、髑髏をむき出しにした真っ黒なローブを身にまとった死神の姿そのものだったが、近づいてくる毎にそうではないとわかった。ローブだと思っていた物は旧世紀のミリタリーコートで、それが小柄な体をすっぽりと覆っていたのだ。首にはなぜかえらくごつごつしたヘッドフォンをかけている。戦闘機を運ぶ船……たしか空母とか言う名前だったと思うが、あの搭乗員がかけているアナログな通信機器に似ている。無骨な型だったが、耳にかかる所が天井の光にきらきら輝くワインレッドに塗られていた。
 黒瀬の見ている前で、そのコートの裾が、まるで生き物のようにするすると縮んでいく。ぎょっとして目を見張る。裾はどんどん短くなって、髑髏の膝上くらいまでになった。裾の下からはむき出しの華奢な足が現れる。すらりとしたそれは、ファッション製皆無の軍用ブーツに締め付けられている。コートの下には、なぜかスカート――――ではなくキュロットスカートを履いているようだった。ひらひらしたヒダの間から、ぴったりと肌にフィットしたショートパンツが見え隠れしている。それは最近流行のプリなんとかというタンパク質の素材で出来ていて、滑らかな光沢を放っていた。
 彼――彼女?――は本当に、鼻と鼻が触れあうような間近まで迫った。思わず身をそらそうとしたが、がっしりと双肩を捕まれて動けなくなる。
「動かないで」
 彼女はそう言って、髑髏に手をかけた。
 仮面をはぐように、髑髏がその手に落ちる。目を見開いた黒瀬の前で、彼女が頭を振って、フードを取り払った。まるで生き物のような長く艶やかな髪があふれ出てきた。髪は重力に従って地面に落ちる。――――長い。一体何年延ばしたらこんな髪になるのだろうか。無秩序に伸びた髪は、地面に触れる程だった。
「こっちを、向いて」
 呼び声に目を向けると、女がこちらを見つめていた。
 声からして女だろうと思っていたが、思った以上に若い。同年代か、少し上くらいだろうか。丸顔で童顔だったが、顎のラインが綺麗であまりガキっぽくは見えない。すらりとした肌は健康的な明るい乳白色。すっきりとした鼻筋に、ほんのり桜色に染まった唇。異様に長い髪と奇妙な格好がなければ、卒業アルバムに一人はいる目立たないかわいい娘といった感じだった。何より、目が印象的だった。ぱっちりと開かれた二重の目は、揺らぐように瞳が煌めいていて、どこか精悍な少年のようだった。
 真正面から、自分と同世代くらいの女に、こんなにまじまじと見つめられたのは初めてだった。なんだかいたたまれない気持ちなりながら、黒瀬は彼女の目を見つめ返した。
 ふと、奇妙な事に気がついた。黒瀬の顔を反射しているその目が、小さな駆動音と共に微妙に色を変え、瞳孔が閉じたり開いたりしている。思わず、じっと吸い込まれるように彼女の目を見つめてしまった。これは錯覚だろうか? 瞬きを何度かくりかえしたが、彼女が非難するように目を細めたのでやめた。彼女の目は暖炉を背にした水晶のように気まぐれに色を変え、またたいた。
 不意に顔を離した彼女は、黒瀬の顔をまじまじと見つめた。そして両肩にかけていた手を黒瀬の頭の後ろに回した。まさか抱きついてくるのかと思った黒瀬はあたふたしたが、彼女にその気はないようで、後頭部で何かをいじっているようだった。
 がぽ、と空気が抜ける音がした。
 唐突に視界が開ける。なんだ? と思っていると、自分でも今の今まで気づいていなかった圧迫感が顔から離れた。ゴム質の、仮面のような何かが、顔からはがされるのが見えた。
 鼻と口、それに耳の覆いが取れ、清涼な空気が喉の奥へ流れ込んできた。音もクリアになる。地下室の匂いは仮面越しにかぐよりも何倍も濃密で、思わずむせそうになった。僅かに汗ばんでいた顔の皮膚を冷たい空気がぬぐっていく。寒気を感じた。レンズ一枚を隔てて見ていたらしい景色に、鮮やかなコントラストがついた。大人のままこの世に生まれくると、こんな気分なのかもしれない。
 死神が黒瀬の前に体をもどした。その手には、ガスマスクが握られていた。ガスマスク? まさか、かぶっていたのはこれなのだろうか。どうしてこんなものを――――そう思っていると、女の顔がすっと視界に現われた。彼女は厳しい疑いの目をこちらに向けていた。あらわになった黒瀬の顔を見つめて、さっと瞳を震わせる。
「どうして、ここに――――」
 それっきり、彼女はじっと、黒瀬を見つめ続ける。
 


 おぼれる者は藁を掴む。黒瀬はこの得体の知れない人物に必死になってここに至るまでの経緯を語った。女はそれを、能面みたいな無表情で聞いていた。そう、まるで"表情"は変わらなかったが、不可思議なことに、彼女の"目"は話の所々でくるくると色が変わった。最初は透けるような茶色だった瞳は、次第に深い青色になり、次は紫、麻戸刑事の辺りで黄色にぱっと変わり、祖父のPlay fun!12を導入した辺りで、まるでパトランプみたいにぺかぺかと点滅する緋色に変わった。
「……これが、偶然……?」
 彼女はそう言ったが、それが何を意味しているかはわからない。彼女は困惑しているようで、しばらく何事か考える仕草をしてから、言った。
「……いずれにせよ、あなたには全てを話すべきなんだと思います。きっと、イジェクターの遺志ですから」
 なんだか奇妙な話し方だった。どことはわからないが、外国の文学を古い翻訳機でかけたみたいな違和感があった。抑揚もあまりなくて、平坦だ。
 彼女は辺りを見渡す。
「ここはアウターワールド。夢みたいな現実の、もう一つの世界」
うたう
 彼女は謡うように語り始めた。その内容は黒瀬にとっては奇妙奇天烈で難解を極めた。「Play fun!12を利用した仮想世界をつなぐセントラルポイント、仮想世界の総称でもある」――こんな説明では何もわかるはずがない。黒瀬は起きている事態の異様さに駆られ、他人――いや、ただの他人ならまだしも、自分の屋敷の地下に知らぬ間にいた異様な女だ――への恐れを忘れ、小さなぼそぼそとした声で、延々と押し問答みたいな質疑応答を続けた。
 そして、ようやく答えに近いらしい物にたどり着く。
「つまり……仮想世界なのか、ここ。ゲームの世界だっていうのか、現実の世界じゃない?」
 彼女はうなずくように、ゆっくりと瞳をまたたかせた。「正解」。
「あなたがいる現実世界を模して作られた仮想世界です。自動的に私のホストに送られてきたので、あなたの記憶をもとに受け皿として私が作りました」
 くるっと目の色が変わった。オレンジだ。少し胸を張るような仕草をした(……薄い胸だな)。その瞳がきらきらと輝いている。何か伝えたいのだろうか。
 黒瀬は辺りを見渡した。確かに、Play fun!12は現実そのものみたいな空間を、感覚器官に仕込んだナノマシンででっち上げる事が出来るという触れ込みだった。実際に目にしたのは初めてだ。手近にあったコンパネらしき機械を軽く叩いてみる。硬い、金属の感触がはっきりと返ってきた。息をすると冷たく、ほこりっぽい匂いがする。目の前の彼女だって、身なりはいざ知らず姿形だけは生身の人間そのものだ。とても作り物とは思えない。
「これが、ゲーム……?」
 引きこもっている自分を担いで喜ぶような暇な人間がいるとも思えないが、こんな出会い方をした女の言動を信じる気にもなれない。
「アウターワールドをプレイした事がないんですか」
 彼女が平坦な声でそう尋ねた。たぶん、普通の人間なら意外そうな声色と表情をしているのだろう。黒瀬が頷くと、彼女はまた目の色を変えて、黄色い瞳をぺかぺかと点滅させた。
「そう――――アウターワールドは、脳を利用した仮想現実空間(ヴァーチャルスペース)の総称です。脳の中で、自分の好きな世界を、想像するままに創造できる。量子通信(ネツトワーク)を介せば、その世界をゲームとしてネットワーク上に公開する事も出来るんです。もちろん、他人の作った世界(脳)にアクセスする事も可能です」
 そう言う彼女の髪がうごめいた。何かの見間違いかと思って目を凝らすと、地面までしたたっていた髪は植物の成長を早回しで逆再生したみたいにしゅるしゅると縮んでいく。彼女がピンと人差し指を立てると、髪はその指に甘えるように絡みついてから、また縮んでいった。そして後頭部で複雑に絡まると、まるで花が咲いているみたいなアップロールに変わる。
「これですか? プログラムが通してあるので、自由自在なんです。お邪魔ならもっと短くも出来ますが」
 黒瀬の視線に気づいた彼女が何でもない事のようにそう言ったのを見て、ここが現実とは違うルールにのっとった世界なのだとようやく悟った。目の色がくるくる変わったり、服の裾や髪が伸び縮みしたり、いくら技術が発展したと言っても、現実では見た事も聞いた事もない。
「お前、誰なんだよ……爺ちゃんの知り合いか」
 なんだか気味が悪くなって、今更ながらそう尋ねた。彼女の瞳がまたくるくる変わる。
「私はイジェクターのオペレーションソフト(OS)です。呼称は便宜上『コーディ』」
「イジェクター? コーディって……外国人か?」
「いいえ。所在地は日本で、私は『人』ではありません」
 は、と呆れ笑いみたいな声が出た。コーディはそれにまた目をくりくりと光らせた。赤い。なんなんだろう、この目の変化は。もしかしたら、笑った事に腹を立てているのだろうか。
「この施設がなんなのかわかりませんか? これが、私。ここが、私です」
 黒瀬の頭に疑問符が浮かぶ。散文詩のような事を言い出した。
「ここがなんだっていうんだ」
「ここにある機械は前世代スーパーコンピューター『テラ』です。これが私を内包する外部装置(ハード)で、私はその内にプログラムされたソフトです」
 突拍子もない話に半笑いになって言葉を失った黒瀬に、コーディは淡々と続けた。
「ここにある演算装置は総機能の三分の一の稼働で1秒間に約6.4×1018回の命令実行が可能です。これは、人間の脳が1秒間に発生させられる神経インパルスの最大数とおよそ同じ。私はこれらの演算機能を利用してイジェクターをオペレーションするためのプログラムです。ニュートラル状態ではほぼ人間と同じ意志、思考を有しますが、実体は持ちません。私はデータ状にしか存在しない仮想的な人格であり、見ようによっては生命です」
 たたみかけられて、唖然とした。目隠しされて食べさせられた料理を、コックに解説されてるみたいな気分だ。何が何だかわからない。かすかに頭に浮かんだ言葉を、呆然と口にした。
「えぇっと……つまりお前は、人間じゃなくて、ここにある機械だってのか? その……」
「人工知能(A.I.)です」
 コーディはぴしゃりと言った。
 いよいよ無茶苦茶になってきた。今まで自分の正気を疑ってきたが、こいつの正気も疑うべきなようだ。もっとも、祖父について知る手がかりは、この不思議の国のアリスに出てくる気の触れた住人みたいな少女しかないようなのだが。コーディがくりくりと深海みたいな色の目を輝かせている。
「……なぁ、あんたが何者なのかはもういい」
「私はコーディです」
「それはもういいから。親切にしてくれてありがとう。それで、とにかく……俺が聞きたいのは、そうだよ、爺ちゃんだ。俺の爺ちゃん、黒瀬達吉って言うんだけど、知らないか?」
 コーディは目をくりくりさせた。目は口ほどにものを言うというが、彼女は無表情な代わりに瞳に感情が表れるのかも知れない。
「イジェクターのアカウントの持ち主です」
「イジェクター? イジェクターってなんだ?」
「イジェクターは一般的にはヒーローです。アウターワールドで、アウターホリッカーをイジェクトして救出する。救済者の任を担っています」
 黒瀬は目を細めた。聞き覚えのあるキーワードだ。ようやく本題に入れたらしい。アウター、ホリッカー。イジェクト……排出する(イジェクト)? ゲームの世界から、排出する、という意味だろうか。
「アウターホリッカーって、中毒起こして死ぬ連中だよな? 救済者って事は……爺さんはアウターホリッカーとかいう連中を助けてたのか? 殺したんじゃなくて?」
「殺してはいません。三日間の連続プレイで死亡するアウターホリッカーをゲーム上から排出する(Eject)事によって彼らを救っていました。私は彼をサポートするオペレーションソフト。そばで見ていました」
 その後に続いた彼女の平坦な説明を総合するに――――どうやら、ゲーム中毒で死にかかった連中を、どうやってかは知らないが、無理矢理ゲームから追い出す(イジェクト)事で、助けて回っていたらしい。
 自分でも驚く程、彼女の言葉に安堵した。思わず息を吐き、肩を降ろしたくらいだ。どうやら得体の知れない奴からとはいえ、「大丈夫」と言ってもらえたのが余程効いたらしい。思えば、家に引きこもっている内は、誰にも干渉されない代わりに誰かに相談する事も出来ない。唯一の相談相手であったはずの祖父は死に、今度は悩みの種になってしまった。その悩みを、得体が知れない奴だし、証拠もないとはいえ、誰かに「大丈夫」と言ってもらえたのが、孤独な身にしみた。
「そうか、よかった……。でもなんで、爺ちゃんはゲームで人助けなんてしてたんだ」
「……私は命令を実行するだけで、その目的までは問いません」
 黒瀬は唇をへの字にし、視線を斜め下に落とした。もう少し何か訊きたい気がするが、質問が思い浮かばない。自分を機械と名乗る少女になんと尋ねた物か。まず、正気かどうかを尋ねるべきだろうが……まぁ、重要な事はだいたい訊き出せたと思う。
「わかった。ありがとうコーディ……だよな? えーと、それで、ここがアウターワールドっていうなら、現実の世界じゃないんだよな? そろそろここを出たいんだけど」
「あなたの脳は私がモニターし、支配しています。私の許可がなければ出られません」
 脳、モニター、支配、許可。
 何か不穏な言葉の羅列だ。気味が悪くなる。
「なんだそれ、よくわからないけど……じゃぁ、許可してくれよ」
 コーディの目が、深い青色から、鈍い金色に変わった。輝きのない金色。
「できません。優先事項に反します」
「ゆ……え? 何?」
「私はPlay fun!12にインストールされたソフトです。この施設で演算された私は、Play fun!12を通してあなたの脳に顕現します」
「いや、だから」
「つまり」
 コーディが先んじていった。
「私はあなたの脳に存在しています」
 彼女の瞳の鈍い金色が、次第に熱を帯びるように輝きだした。
「そして私の製造理由(レゾナンスビリティ)はイジェクターの補佐(アシスト)。そして維持(キープ)」
 とりつかれたように話す彼女に底の知れない恐怖感を抱いて、彼女から身を離そうとしたが、その途端ぐぃと体が後ろに傾いだ。見ると、コーディが袖を引っ張っている。
「あなたにはイジェクターの役目を引き継いでもらいます」
 は、と疑問のかすれた声を出した黒瀬に、コーディは次第に金色に輝く眼を向けた。
「前任のイジェクターが任務を放棄した場合、後任者は私が選定します。私はあなたを選びます。現在の私が認識できるのは、前イジェクターのPlay fun!12を引き継いだあなたしかいませんから」
 彼女の周囲に黄金色の無数の文字列が唐突に現れた。思わず身を引いた黒瀬の手をコーディは再度強く引いた。彼女は文字列を睥睨する。まるでパズルみたいに、文字列は上へ下へとかしゃかしゃ音を立ててうごめいて、黒瀬の周りを旋回し始めた。黄金色の鳥かごのように文字列は彼を取り囲む。
「マスターキーがあなたの名前で書き換えられます。あなたはこれより管理者権限を部分的に委譲され同時に義務を負います」
 何をしているのかは全くわからない。が、言いがかりに近い理由で自分が何かとんでもない事に巻き込まれようとしているのは分かった。役目を引き継ぐ? 選んだって……俺を!?
「な、なんなんだよお前!」
 黒瀬は一気に手を引いてコーディの手を振り払った。
「何してんだよ、お前、頭おかしいんじゃないか!?」
 コーディはすぐさま手を掴み返した。
「あなたを新たなイジェクターに任命します。あなたはアウターワールド上でアウターホリッカー達を救出する任を負います」
「なんだそれ……おい、手を離せ!」
「拒否すれば私は消滅し、あなたは死にます」
「死ぬって、なんでだよ、手離せって!」
「あなたの脳には現在二つのPlay fun!12が存在し、互いに干渉し合って機能衝突を起こしています。それにより、脳の一部に重大な損傷を負っているのです。現在は私の管理下で安定していますが、私が製造理由(レゾナンスビリティ)を失って凍結されるとその効力は失われ、あなたは脳の機能分裂によって死にます」
 また反論を一切認めない調子でたたみかけられて、一瞬黒瀬は絶句した。それからふつふつと怒りがわき上がり、
「――――適当な事言うな!」
「既にあなたの脳には記憶障害が起きています。あなたの記憶は、欠落を都合良く補った偽物の記憶でできているんです」
「うるさい!!」
 今度こそ、勢いよく彼女の手を振り払った。彼女の冷淡な無表情を叩くように振り払う。だが、その手が離れた瞬間、まるでその動きを最初から知っていたかのような素早い反応で、彼女は即座に黒瀬の動かない左腕を掴んだ。
「この腕と足が動かないのも、以前導入したPlay fun!12のバグが原因です。あなたはそれに、心当たりがあるのではないですか」
 あるわけないだろ! そう叫ぼうとして、息が詰まった。最初はなぜかわからなかった。思わず声のでない喉に手を伸ばしたくらいだった。それは、拒否反応だったのだ。無意識に嘘をつこうとする理性への、本能の制止。
 まるで深い泥沼のそこから浮かび上がるみたいに、記憶はふつふつと浮かび上がってきた。それは黒瀬がまだ文字も読めないような幼い頃。まだ家族が"正常"だった頃。父が優しく手を伸ばしてきた記憶があった。その手には、糸のような黒い固まりの入った、ボールペン容器状のケースが握られている。口の開いたそれが黒瀬の鼻腔へ差し込まれる。その不快感に、思わず泣き声を上げて抵抗するが、抗いがたい力で鼻の奥まで突き込まれる。そして何かが入りこんで来る感触、全身を襲う衝撃、恐怖に飲み込まれ、だが痙攣する喉は悲鳴もあげられない――――

『新たな世界が、お前を待ってる』

 父が自分を睥睨している。死に行く虫を見るような、冷淡で平坦な目。身動きできない自分を置いて、父が行ってしまう。何かが壊れ始めたのを感じた。自分が信じて疑わなかった、何かが、その時、音を立てて崩れたのだ――――




「起きてください」
 気がつくと、コーディがへたり込んだ自分の横で、膝をついてのぞき込んでいた。彼女の長い鬢が、自分の頬に垂れている。見開いた目で彼女を見つめる。不思議な事に、彼女の姿はまるでタスクウィンドウのように透けていて、ほのかにコバルトブルーに染まっていた。
「身体的損傷はないはずですが、復元した記憶に激しい反応を見せたので、一度現実の世界へ戻って――――」
 黒瀬はその言葉を最後まで聞かず、彼女を突き飛ばすと、ドームの入り口へ向かって駆けだした。恐ろしかったのだ。彼女が、ではない。自分の中に埋没していた記憶が、幼い頃に感じた現実の薄っぺらさが、叫び出したい程、恐ろしかった。



 息を荒くして、祖父の部屋を出て、その鍵を閉めた。とりつかれたように、地下室へ続く階段へ不要な家具を投げ込んでいく。そうして完全に封印すると、黒瀬はその場にへたり込んだ。逃れられない悪夢が続いているみたいだった。つり下げた、動かない左腕と、義足を見つめる。
『新たな世界が、お前を待ってる』
 間違いない。父だ。父が幼い自分に、Play fun!12を導入したのだ。
 でも、どうして――――思い出したくもない記憶が脳裏を駆け巡って、頭を抱えた。喉の奥から、こし出すようにやめろと叫ぶ。実際に出たのは、まるで言葉になっていない、押しつぶれた声だった。自分の中に、自分では理解できない何かが生まれた。昼の世界から追い出され、陰の世界でようやく自分の世界をつかみ取ろうとしたのに、わけのわからない理由で記憶までが黒瀬を追い出そうとする。これ以上、どこに行けっていうんだ――――
 言うまでもなく、彼はすっかり混乱していた。そしてそんな彼の意識を現実に引き戻したのは、廊下の奥で聞こえた重い何かが床に転がる音だった。
 ゆっくりと頭をもたげた黒瀬は、その音の方へ、おそるおそる近寄った。何度目かの角を曲がった時、思わず声を上げた。そこにあったのは、力なく横たわった少女の姿だった。それも、見覚えがある。数瞬、空白の時が過ぎ、それから、本能が声を上げた。
「眞子!」
 滑り込むように彼女の体にとりつくと、その体を持ち上げた。華奢で色白な体が、柔らかな鉛のようにずっしりと両手にのしかかる。だらりと下がった首を抱えると、彼女は目を見開いたまま、死んだように弛緩していた。彼女の瞳は、まるで見えない何かに焦点を合わせるように、せわしなく瞳孔を開閉していた。
『外側中毒(アウターホリツク)』
 耳元で囁かれた。
 飛び上がらん程驚いて声の方を見ると、宙に浮いた彼女が――――コーディが、こちらを睥睨していた。かすれた声で、思わずつぶやく。
「お前、どうやって――――」
『私はあなたの脳に存在しています。物理的な障害は意味をなしえない』
 彼女は眞子へと目を遣る。
『……彼女、連続プレイ時間が71時間を既に超えています。あと28分で中毒症状を発症するでしょう』
 黒瀬は慌てて眞子に眼を向ける。彼女の体は、まるで抜け殻みたいだった。ただ、瞳だけがうごめいている。
「アウターホリックって……眞子がか? こいつが、アウターホリック? そんなわけ、そんなわけあるかよ。さっきだって、ゲームしてる様子なんて、全然……」
『仮想空間をプレイしながら現実を生きる事は可能ですし、一般的です。本を読みながら食事をしたり、音楽を聴きながら運転するのと同じ』
 不意に思い返す。今朝会った眞子は少し様子がおかしかった。呂律が回っていなかったし、視線も定まっていなかった。熱でもあるのかと思ったが、まさか、アウターホリックに陥っていたとでもいうのか。
「お前が……お前がやったのか!?」
 コーディをにらみつける。こいつと出会って一時間もしない内に眞子が倒れた。理由も原因もわからないが、そんな都合のいい話があるか。コーディは何も言わなかった。
「何とか言えよッ!!」
 その胸ぐらにつかみかかる。コーディは眉一つ動かさず、その瞬間を冷然と見つめていた。その目は冷ややかな黒真珠のような色をしている。そして黒瀬の手がもうその体にかかるという、その瞬間。
『排出者(イジェクター)』
 彼女がつきだした人差し指が、黒瀬の額に触れた。その時、突然世界は暗転した。今の今までそこにあった廊下の床も、壁も、畳張りの居間も、柱も、縁側から差し込む光も、あっという間に暗闇にのみまれ、何もない空間に飲み込まれた。
 彼女の目の色が変わる。どす黒かった瞳は極めて薄いコバルトブルーに染まった。それはユビキタス機能で表示されるタスクウィンドウと同じ色だった。彼女を包んでいた真っ黒なコートがたなびき、その下から、ぴったりと体にフィットしたゴム質のスーツが見えた。
 桜色の口元がうごめく。
『インサート』
 意識が吹き飛んだ。










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