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 現れたその老人がさしだした手帳には、金色の菊の花が一輪咲いていた。
 花の下には老人の名前が印字されている。
 『麻戸 巧 "警部"』

 仏壇の鉢形の鈴を叩いた老人――麻戸警部は義理とは思えない程長く遺影に頭を下げ続けた。
「今後はお父上のところで暮らされるのですか」
 祖父へ線香を上げ終った老齢のその刑事は、ロウで固めたようなシワだらけの顔をじっと黒瀬に向けてそう言った。低くしわがれた声は酷くかさついていて、喋る度にマイクが誤作動したみたいな細切れの音がした。仏間の長机を挟んで向き合った黒瀬は口を開かず、首を振ってそれに答えた。
「では、どなたか引き取り手が?」
 黒瀬は視線を膝の上に置いた手に落とした。麻痺した左手を、右手の上に載せる。吊り布に隠れていたが、その下に置かれた右手は固く握りしめられ、こわばっている。そうしていないと、緊張で今にも全身が震え出しそうだった。額にはじわじわと汗の粒がにじみ出す感覚がした。――――祖父以外の人間がこの家に来る事など、今日まで考えもしなかった。いざ対面して他人と向き合うと、相手が何をし出すのかまったく予想がつかず、得体の知れない異様な程の巨大な恐怖を感じて、体が震えた。木目のある長机の上に置いた、茶の入った湯飲みで、うすい緑の水面が、小刻みに波紋を描いていた。
 結局、質問に答える事は出来なかった。答えたくもなかったが。そうしていると、麻戸はどうとったのか、またかさついた声で
「大変な時期にお伺いして申し訳ありません。黒瀬――完爾さん」
 何でこいつ、俺の名前知ってるんだ。
 そう思ったが、尋ねる事はしなかった。差し出された警察手帳を思い出す。この男は刑事なのだ。名前くらい簡単に調べ上げるだろう。それよりも、と黒瀬は思う。問題は刑事がなぜ線香なんてあげに来るかという事だ。
「……生前、お爺さんに変わった事はありませんでしたか。何らかの政治的な活動をしていたとか、交際していた方がいたとか」
 変な事を訊く。何をしに来たのか言わない気なのだろうか。
 ならば、こちらから仕掛けるしかない。
「じ――爺ちゃんは何か事件に関係していたんですか。誰かに殺された訳じゃなかったと思うけど」
 声は緊張で酷くこわばっていて、情けない程かすれていた。黒瀬が奇襲したつもりのかすれ声に、麻戸刑事は答えず、居間の長机にあった灰皿をたぐり寄せて、煙草に火をつけた。
「ええ、そうでしょう」
 それだけ言うと、煙草が半分になるまで黙ったままだった。
「Play fun!12というのはご存じですか」
 麻戸はまた唐突に口を開いた。苦しまぎれに茶をすすりかけていた黒瀬は、一瞬呆然と麻戸を見つめ、それから、苦々しい思いでその名を反芻した。手にした湯飲みを机に置き、その水面に広がる波の環を見つめる。Play fun!12――こんなところで耳にするとは思わなかった。


 その名が初めて世間に公表されたのは八年程前だった。だが黒瀬がそれを耳にしたのはもっとずっと前、物心ついた四歳か五歳くらいの頃だったと思う。まだ黒瀬が両親と暮らしていた頃……今よりはほんの少しは幸せだった頃、父の口からよく耳にした名だった。
 Play fun!12 
 それは人類が夢にまで見たフル体感シミュレーターであり、もう一つの理想の世界を作る機械だと父は語った。誰もが手軽に理想の世界を作り出せる。それは限りなく現実に近い、だが現実より居心地の良い世界。ボールペンの容器に入ったミミズみたいなナノマシンの固まりを鼻から吸引して鼻腔の粘膜から吸収し、脳下垂体から進入したそれらを小脳から大脳皮質に至るまでまんべんなく偏在させると、全世界待望のフル体感仮想世界が現実になる――――何度も同じ説明を繰り返された。
 父こそが、Play fun!12を開発したV-tec Life社の重役の一人だった。父はよく、『私は新たな世界を創造しているんだ』と嬉しそうに口にしていた。普段は全身の血を鉄と入れ替えたんじゃないかと思う程冷たい父が、Play fun!12を語る時だけはまるで対等な友人のように話してくれた。それがうれしくて、黒瀬は必死になって父の言葉を飲み込んでいった。そんな自分と父を、母は不安といぶかしさが入り交じった表情で見つめていたが、当時の自分はその視線の意味に気づく事は出来なかった。
 父が喜々として語るその夢の世界は魅力的で至上の宝のように思えた。だが、幼い黒瀬は父の口からPlay fun!12を知れば知る程、次第にその『エデン創造キット』に嫌悪感を抱くようになった。いや、嫌悪感は始めからあったのだ。時間が経つにつれて、それに気がついていっただけだ。
 父は自分以上にこの機械を愛している。
 今ではこんな簡単に言える事が、当時は幼すぎてわからなかった。子供のようにはしゃぐ父を嫌いになり、そんな自分が嫌いになり、Play fun!12も憎悪の対象になっていった。思えば、母も同じような思いを抱いていたのではないか。優しい母は毎夜、父の書斎の前で泣きじゃくっていた。Play fun!12はそういう記憶とセットの思い出となり、黒瀬の頭の片隅にうち捨てられていた。それを、この刑事は掘り起こそうとしている。一体、何が目的だ?


「このゲーム機が市販されたのは八年前……『鼻から吸引する』『脳に機械を入れる』そういったセンセーショナルな導入法が世間を騒がせました」
 黒瀬が黙っていると、麻戸は知らないと見なしたのか、ぼそぼそと平坦な声で解説し始めた。
「連日連夜、ワイドショーやニュースで、自称"知識人"達が論争を繰り広げたものです。その倫理性、技術的信憑性、命と機械の宗教的係わり合い――――喧々騒々。しかし一年も経つとそう言った輩は消え去りました。世間の興味を引く新たな事件があったのか、誰かの横やりがあったのか――――いずれにせよ、ここ八年間でPlay fun!12は日本中に広がりました。三年前、ユビキタス機能が付加されたPlay fun!12が発売されたのがそれに拍車をかけた。大人から子供まで……今や変わり者や老人をのぞいて、導入してない者はいない」
 黒瀬はむっと口を歪めた。あの忌々しい父が関わったものになど関わりたくなくて、Play fun!12は導入していない。自分は変わり者だと言われた気がした。テレフィルムとか、街の広告塔とか、ネットワーク上の交流場所(コミユーン)とかで散々話題になっているのは知っていたが、そもそもユビキタス機能なんて下品なものも嫌いで、ゲームもそれほど好きではない自分には関わりのないものだと思ってきたのだ。
「Play fun!12は導入してない。ユビキタス情報はアイウェアをかけて見るから」
「ではそれをかけてこちらをご覧ください」
 麻戸刑事はなにかを掴んで差し出すような仕草をした。黒瀬が胸元から取り出したアイウェアをかけると、彼は一枚のテキストウィンドウを手にしていた。半透明でコバルトブルーのそれを受け取って、目を通す。
「"外側中毒(アウターホリツク)"、ご存じですか」
 不意に、脈絡もなく麻戸はそう言った。黒瀬はしばらく思案してから、浅く頷いて返した。最近よく耳にする単語だ。テレフィルムのニュースでよくやっている。
 Play fun!12が作り出す完璧な仮想世界――――現実と全く同じ世界で自由に創造された世界、その世界を外側世界(アウターワールド)と呼ぶ。
それは当人にとっての理想の世界だ。人殺しからセックスまで、あらゆる禁忌を犯し、性転換から永遠の命まで、あらゆる限界を突破できる。そこでは英雄になることも、悲劇のヒロインになることもできる。
 だがその理想の世界は、機械が脳の中に描き出した幻想卿にすぎない。つまりこの世界の外側にある世界(アウターワールド)なのだ。にもかかわらず、その幻想卿にのめり込む人間は後を絶たない。その中でもとりわけのめり込んだ連中が、飲食も睡眠も排泄も、それに仕事も交友関係も家族も全部忘れてひたすらゲームに没頭し、ついには死に至る――――それが、外側中毒(アウターホリツク)。
Play fun!12の連続プレイ時間が二日を過ぎた時点から、その人の生命活動は急速に弱まり、タイムリミットの三日に至るまで生体機能がどんどん損傷していく。そして三日目に至ると、もはやその生命が終わるのを止める術はない。
「今やアルコール中毒(アルコホリツク)より名の知れた中毒ですよ、この、外側中毒(アウターホリツク)という奴は。もっとも、俗悪なメディアではその死がゲームに熱中しすぎた愚か者の末路として面白可笑しく取り上げられるばかりですがね。……これを」
 麻戸は胸元から、何かを取り出して卓の上に置いた。目を凝らすと、ケースの中に小さな、本当に小さな……糸か針金のような黒い線(ワイヤー)が見えた。
「検証は終ったので、差し上げます。あなたのお爺さんの脳から摘出したPlay fun!12です」
 思わず麻戸の顔を見上げた。麻戸は眉一つ、動かしていなかった。
「は? 摘出って……」
 黒瀬はきょとんとした。
 麻戸が黒瀬が持つテキストウィンドウを指し示す。
「それは死亡した夜のお爺さんのログイン記録です」
 手元のウィンドウに目を凝らす。暗号図表か何かにしか見えない枠と数字の組み合わせが並んでいる。
「ログインって……Play fun!12(ゲーム)の? 爺ちゃんが?」
「ええ、あなたのお爺さんがアウターワールドにログインしたプレイ記録(ログ)です」
 幾ら何でもあり得ない話に思わず吹き出した。70を超した爺さんだったのに、ゲームをしてただって? だが、笑みを浮かべた黒瀬を、麻戸は冷淡とも、哀れみともつかない目でじっと見つめるばかりだった。彼の目は、よく見ると左目が正気を失ったみたいに明後日の方向を向いていて、まるでそれだけが独立した生き物のようにぐろぐろと蠢いている。それが、獲物に焦点を合わせるように、ぴたりとこちらを向いて止まった。その目を見ていると、彼が冗談を言っているわけではないのだという確信が、じわりと胸の内で広がっていく。
「ログインデータには、あなたのお爺さんがログインした時間と、ログアウトした時間が記録されています。ご覧なさい、これが、あなたのお爺さんの外側世界(アウターワールド)での名前ですよ」
 麻戸が指さした先には、短い英単語が一つ、ぽつんと置かれていた。
――――[Eject(排出)]
 まるで暗号図表のようだったウィンドウの文字の意味が、おぼろげながらわかってくる。それはどうやら、『Eject』と言う名の誰かが、『IN』した時間と『OUT』した時間が淡々と記録されているようだった。最後の記録を見ると、死亡する前日の十時から、翌朝の五時まで『IN』状態だったのが記録されている。
「そのログ、一番最初にお爺さんがログインした日も記録されています」
 言われて、黒瀬はテキストウィンドウの上で親指をはじくような仕草をした。ウィンドウの中のテキストは流れるようにスライドしていく。それを四、五回繰り返した頃、画面はぴったりと止まった。一番最初の記録が、無機質に列記されている。

 < 2042/ 11 / 23 / PM11:47 IN >

「Play fun!12が発売されたのは20 "65" 年――――」
 黒瀬はテキストウィンドウから目を離し、麻戸に眼を向けた。
「あなたのお爺さん、Play fun!12が存在する二十年以上前からログインしているんです」







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