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 祖父が死んだのは、一ヶ月と少し前の事だった。
 不仲の両親に代わって自分をずっと見守っていてくれたのは、祖父だった。ただっ広いこの屋敷に一人で住んでいた祖父は、幼い黒瀬を何も言わずに迎え入れ、以来十年以上の歳月を、二人はこの屋敷で共有した。二人でも持てあますくらい広いこの屋敷では、それほど親密な交流があったとは言えないが、それは二人にとって最適な距離感だった。左手と左足の麻痺が原因で他人の奇異の目に晒され続けた黒瀬には、祖父の空気のような存在感と、時折投げかけられる、どこか寂しげな優しい瞳が心地よかった。祖父もまた、自分をとても大切な存在として想ってくれていたと思う。父も母も、自分の事で手一杯で、自分に本当の意味で向き合ってくれた人はいなかった。だが祖父はそうじゃなかった。祖父は生まれて初めてできた本物の『家族』のようだった。

 祖父の屋敷に来た十年前以来、黒瀬はほとんど家を出ていない。日も昇らない明け方にふらっとランニングに出かけ、朝日が眩しくなる前に戻るくらいだ。黒瀬にとって、屋敷の外の世界というのは――――『昼の世界』というのは、酷く縁遠いものに感じられた。友達も、先生も、すれ違う人も皆、自分と会うと変な顔をして、言葉に詰まる。黒瀬の左手と、左足に宿った不幸を哀れみながら、どう言葉を投げかけたものか思案するのだ。そういう表情が、一番嫌だった。母親の沈鬱な瞳を思い出すのだ。
 いつしか、思うようになった。ああいう表情をする人々と、自分は、全く違う世界の住人な
のだ、と。彼らは日の光を燦々と浴びる昼の世界の住人。自分は陰に身を潜めて息を殺す、陰の世界の住人。二つの世界の住人は、互いに相容れない存在なのだ。昼の世界の住人は昼の世界で生きればいい。陰に身を潜めている、五体不満足な男の事など、知りもしないでいればいい。そうしてくれれば、自分だって奇異の目に晒されなくてすむ。そしてそれは、自分が昼の世界に求める唯一のものだった。だから黒瀬は屋敷にこもった。屋敷の中は安全で、安寧で、安心できた。祖父は自分とどこか同じ匂いがして、側にいたとしても苦痛ではなかった。
 それに祖父は、昼の世界を拒否した自分を、責め立てたりしなかった。もちろん間違った事をすれば叱ってくれる。むしろそれしかしてくれないが、それで十分だ。それで、両親よりはるかに自分の事を思ってくれているとわかるから。
 幸いにも今は学校を通わなくても、量子通信(ネットワーク)を介して良質な通信教育が受けられる。運動をしたければ広大な屋敷の一角にある武道場で、祖父がなんだかよくわからない格闘技の稽古をつけてくれる。夜は人工筋肉付きの義足で毎晩ランニングもする。学校みたいに休日なんてないから毎日それをやっていたら、通学するよりもずっと早いペースで高卒単位を取得できている。
 そういう、最低限やるべき事を教えてくれた(勉強とか、運動とか)のは、全て祖父だった。黒瀬の世界は、真夜中のマラソンで見る誰もいない朝靄のかかった街と、祖父の言葉少ない教えだけだった。それでよかった。そうして過ごす時間は、自分が普通の人でない事をいちいち囁かないし、祖父から学べば学ぶ程、鍛えられれば鍛えられる程、自分はいつか、外の世界の誰にも頼らずに、一人で生きられるかもしれないと、希望と自信を持つ事が出来た。

 その祖父は今、仏壇の額縁で永遠に微笑んでいる。

 ついこの間の朝、目を覚まさなかった祖父はそのまま棺に納められた。悲しいとは思わなかった。ただ呆然とした。これまで自分に血肉を分けてくれたのは祖父だった。単純に勉強や運動を教えてもらったのではない、ここで暮らしながら、生き方そのものを教わっていたのだ。そして何より、祖父は家族だった。黒瀬にとって、唯一心許せる家族。それが、失われた。
 人生という台本は今やあっさり失われて、手元に残ったは広大な屋敷と不完全でポンコツな自分の体だけ。これからどうやって生きればいいのか、さっぱりわからない。考える気にもなれない。それでも
 それでも、現実は変わっていく。
 時間は笑えるくらい残酷だ。祖父が死んで以来、ずっと足を止めたままの自分を、過ぎゆく時はあっという間に追い抜いていってしまった。世界は一変した。安寧とした時は周りの大人達が廃墟を整理する重機みたいにひっぺがしていく。自分を誰が引き取るのかが自分の頭越しで相談されていて、屋敷を始めとした祖父の遺産――――"遺"産を、誰が手中に収めるか、親戚達が静かに奪い合いを始めている。そうして過ぎていった時間で、あれから世界は一ヶ月も経ったらしい。
 とても信じられない。
 自分はまだ、祖父が死んだあの日から、一歩だって動いていないのに。





 仏間を抜けて、二階の自室にもどる。気分転換に窓を開けると、無数のタスクウィンドウや宙に浮く半透明の有名人、ホログラムの通販商品が、部屋の中になだれ込んできた。
 都会のど真ん中に立っているかのように、老若男女の声に辺りを取り囲まれる。昨日のサッカーの結果だとか、天気だとか、悲しいニュースだとか、政治家の汚職だとか、芸能人のスキャンダルだとか、代わり映えしない情報がキャスターの映像やワイドショーの映像だとかにのって漂ってくる。高らかに歌う歌姫――springだとかいう――が半裸に近いドレスを揺らして新曲を歌っている。近くにある全国チェーンのカレー屋が春期限定桃カレーの旨さを調理風景を交えて道行く人に教えて回る。この地域に多大な社会貢献をしているとV-tec Life社がさりげなく美しい音楽と共に空に虹色のロゴを打つ。

 アイウェアを外した。
 全て消え去り、水を打ったような静寂に包まれる。

 見上げた空は染み一つ無いまっさらなコバルトブルー。まどろむような春の匂いがした。肌の下にしみこむような、陽光の温もりを感じる。見下ろす街はいつもの静かな朝を迎えていて、ぽつぽつと起こる喧噪以外には、やかましい音も、空飛ぶ人のホログラフもない。
 情報偏在社会(ユビキタス)――――受信装置を身につけていれば、目に入る空間全てから情報を知覚できる社会は、およそ二十年前、黒瀬が生まれる四年程前に生まれた。以来膨大な情報が世界を席巻し、所かまわずがなり立てるCM や空いっぱいに広がる広告が世界にあふれかえった。まったく、迷惑な話だ。人生という道に頼んでもないのに看板が次々に立てられている気分だ。こうしてグラスウェアを外して感じる空っぽな静寂の方が、黒瀬は好きだった。
 ふと、屋敷の中庭の向こう、家の敷地と外の世界を隔てる白壁の向こうに、スカートがはためいた。
 桜並木が薄桃色に吹雪いていて、その合間から、沸き立つような笑みを浮かべた女子高生の姿が見えた。彼女たちのはしゃぎようからすれば、きっと入学した高校に初登校といった所なのだろう。桜吹雪にまぶしそうに目を細めている。
 楽しそうなその姿を目に入れてしまった黒瀬の胸の内に、じわりと嫌な感覚が広がった。不安と、劣等感、ほんの少しのねたみ、そういうのが入り交じった、ドブ水みたいな感情。
 陰った部屋の中から、明るい日射しの下で跳ねる笑顔をのぞき見る自分。
 黒瀬は十七歳、本当ならあの輪の中に入ってもいいはずだった。でも、そうしないことは、自分は選択したのだ。酷いコントラストがある気がした。どこにも所属していない宙ぶらりんな気分。なるようになれ、そんな投げやりな気分。
 ふと、屋敷の入り口に人影がたった。
「(……来た)」
 黒瀬はウンザリしながら、その人影が押したチャイムの音を聞いた。うなだれたままアイウェアをかけた。



 「ドアフォン」とユビキタス機能を呼び出す。顔を上げた彼の前に薄いコバルトブルーのウィンドウが現れ、そこに立体表示された人影の姿が浮かび上がる。セーラー服姿の女の子が立っている。正門に設置した感知器が撮影した、訪問者の映像だ。
「眞子?」
『あ……うん』
 常に下がった眉尻、白玉みたいにまん丸な目、病弱そうな色白の肌、ハーフみたいな栗色のショートの髪は少し癖がついている。彼女を見るといつも、あの耳が垂れ下がったウサギを思い出す。性格だってウサギそのものだ。
 かわいそうなウサギだ。思う。なまじ善良だから、再婚した家族全員が仲良く暮らせるようにと、献身的にもろくに姿も見た事ない兄とコミュニケーションを取ろうとしているのだ。彼女は新しいパパ(黒瀬の父)に利用されているに過ぎない。父は彼女を使って手のかかる息子(黒瀬)を家に迎え入れる気なのだ。もっとも、それは保護者のいなくなった黒瀬を監視するための、世間体という奴を考慮したからであって、再婚を機に関係をやり直そうという気はさらさらない。実の父の葬式にも来ない人間なのだから、そう思ってまちがいないだろう。
『あ――』
 何か用。かすれた声で尋ねると、義妹、眞子はそうやって言葉に詰まった。その顔は少し上気しているように見える。熱でもあるのか? 五秒くらい経ってから、言う。
『――――黒瀬さん』
 またこれだ。黒瀬は頭をかきむしりたくなった。彼女と会うと第一声はいつもこうだ。「あ――――黒瀬さん」その『――――』の中にどんな逡巡があるのか知らない。お兄さんと呼ぶべきかお兄ちゃんと呼ぶべきかあるいは完爾くんと呼ぶべきか。距離感をはかりかねているのだろうか。そういう腹の探り合いみたいな人間関係が一番苦手だった。障害について触れて良い物か迷う「昼の世界の住人」の反応と同じからだ。
『今、大丈夫……ですか』
 言葉を慎重に選んで彼女が言う。短く、「いや」と答える。彼女に悪いが、父の思惑通りほだされる気はさらさらないし、彼女だって、『陰の世界の住人』と話したりするべきじゃないと思う。返事を聞いた立体表示の眞子が、『え?』とその小さな口を開けてぱくぱくと開閉した。それから急かされるみたいに
『あ、あの、昨日ね。家での話なんだけど……あの、家だと、いつもお母さんが帰るの遅いの――遅いんですけど、だから私とお姉ちゃんでいつも交代でご飯作るの。それで』
 …………何の話だよ。
 道中、何を話そうか話の種を考えていたのかもしれない。思わぬ拒否反応に動揺して思わずドアフォン越しにその雑談を始めてしまったのか。ため息が出る程お人好しな奴だ。彼女は夢中になって話し続ける。それにしても、今日はとりわけ変だ。呂律が回っていない気がするし、少しふらついているように見える。まるで、夢見心地だ。
『お姉ちゃんのご飯、ホントはあんまりおいしくなんだけどね。……あ、それで、ホントは昨日が私の当番だったんだけど、私、部活で疲れちゃって、気づいたら寝ちゃってて、代わりにお姉ちゃんが』
「何しに来たのか言えよ」
 ぴしゃりと黒瀬が言うと、まるで怒鳴りつけられたみたいに彼女は息を詰まらせた。それから酷く落ち込んだように肩を落としそうになって、しかし思い直したのか肩にかけていたバッグを右手でぎゅっと握りしめた。意を決したように、顔を上げる。
『今日、あの――今日のご飯、私が作るんだ。お兄さん、食べに来ない? おでんが好きなんだよね? あの、もう材料も買ってあるから』
「お前、もう来ない方が良いって」
 苦々しく、はき出すように言った。
 ずっと言おうと思っていた言葉を、ようやく言えた。これまでにも何度も食事に誘われたが、一度も応じた事はない。なのに彼女はめげずに来る。もう二度と来ないで欲しいと、今日こそ言わなくてはと思いながら、彼女の弱々しい姿に、いつも飲み込んできた言葉だった。
 眞子ははっと顔を上げると、突然身内の死をささやかれたかのように目を見開き、薄い唇を振るわせ、『え……』とかすれる声をあげた。
 そんな顔、するなよな……。慎重に言葉は選んだつもりだったのに。こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。だけれど、転がりだした棘のある言葉はもう止まらない。それと知らずに、父への苛立ちを上乗せして、ぐっと喉の奥で言葉を噛みしめた。
「お前は家族なんかじゃない」
 一瞬、彼女は下がり気味の眉を寄せて、どこでもないどこかに視線を彷徨わせた。さっと目尻に涙がたまり、顔をうつむかせる。
「家族ごっこがしたかったら、俺抜きでやれよ」
『でも……でもこんな所で一人で住み続けるなんて、お兄さんだって』
「俺はお前の兄貴じゃない! 俺の家族は一人だけ――お前と、お前の家族は、関係無いんだよ」 
 乱暴にドアフォンの回線を切ると、アイウェアを外した。門の方へと眼を向けると、彼女は呆然としていた。
 しばらくの後、うつむいて帰って行った彼女を見送り、盛大なため息をつく。外の世界の人と話すと、とてつもなく緊張する。別に、彼女を苦しめたいわけじゃないのに、口を開くといつもこうだ。誰かを傷つけなければ、言葉一つはき出せないのか――――
 眞子は父親と弟を自動車事故でいっぺんに亡くしたらしい。それは父から(一方的に)聞いている。それが三年前の話だというから、彼女は家族に飢えているのかもしれない。特に異性の家族に。黒瀬とて、今まさに家族がいないこの状況にゆっくりと毒ガスを吸い込んでいるみたいな不快感とかすかな恐怖、そして――孤独感にさい悩まされている。だが、だからといって安易に新しい家族に与したくない。ここで十年以上過ごしてきた祖父との時間を、迎えが来たからといって用済みとばかりに投げ出せるほど、非情にはなれない。『昼の世界』の連中なら、時に感情を殺してでも効率の良い方法を選べるかも知れないが、自分にはとてもじゃないができない。もっとも、いずれはこの生活にも限界が来るのだって、わかってる。
 ふと、屋敷の入り口に車が止まったのに気がついて、物思いから目が覚める。
 黒塗りの、威圧的な様相のセダン。黒瀬は目を細めた。車から出てきた老人が、コートの襟を正して、正門に歩いてくる。黒瀬は身をおこし、アイウェアを再びかけた。
『――――初めまして黒瀬さん、亡くなられたお爺さまにお線香を上げさせてください』
 表示された立体像(フォログラム)をじっと見つめて、黒瀬は黙り込んでいた。もう誰も家に上げるつもりはなかった。この家は自分を守る防壁で、最終ラインなのだ。ここを超えられたら、自分を守るものはなにもない。"昼の世界"の人間に、"陰の世界(この世界)"を侵させるわけにはいかない。
『ご在宅なのは分かっています。"正式な手段"を踏まなくてはいけませんか』
 ドアフォンを切ろうとした黒瀬の耳に、声色の変わった老人の言葉が聞こえた。顔を上げ、ホログラムを見ると、老人はスーツの胸ポケットから手帳を取り出した所だった。その所作をじっと見つめていた黒瀬の目が、ゆっくりと、細められる――――
 




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