Eje(c)t

act1 排出者-insert-


それは左手が覚えている、最後の記憶だ。


 かすかな記憶の奥底に、あの時の思い出は埋(うず)まっている。たしか、六歳くらいだったと思う。あの頃、家の雰囲気はほんとうに最悪だった。だから、よく覚えている、あの頃の自分が、何を見て、何を感じていたか――――嫌な思い出ほど、よく覚えているたちなのだ、自分は。
 あの頃は、母親が優しく寝かしつけてくれた後、いつも、夜中に唐突に目が覚めていた。どうしてかはわからない。誰かに揺り動かされたわけでも、騒音が聞こえたわけでもない。ただ、すすり泣きがするのだ。部屋の扉の向こうから、忍び寄るような、すすり泣きが。お化けか、幽霊か、その類だったらどんなに良かっただろうと思う。その湿った嗚咽には、聞き覚えがあるのだ。いつも、ベッドに横たわった自分を撫でながら、優しく語りかけてくれる母親の声――――それに、よく似ていた。
 その頃、母は毎晩、父の書斎の前で泣いていたのだ。
 父は全身の血を鉄と入れ替えたような、冷たい人間だった。もともとそういう人間だったのか、それとも自分の左手と左足に小児性の麻痺が発症してからそうなったのかは、わからない。ただ、記憶の中にある、父から向けられる視線は、いつも死にかけの虫を見るような目で、それは母に対しても同じだった。母は優しい人だったけれど、強い人ではなかった。自分の動かない左手と左足を見つめては、いつも悲しげに目を伏せていた。母が悲しい顔をするのは嫌だった。母はその苦しみを父と分かち合おうとしたようだが、機械より冷たい父にはそんな優しさなどまるでなかった。開かない書斎の扉の前で母がひたすら泣き、父がそれの一切を無視するという、その一方的な夫婦喧嘩の源が、自分の動かない左腕と左足だという事は、幼い自分でも――いや、幼かったからこそすぐに分かった。母のすすり泣きを聞くと、自分が責められているような、いたたまれなくて、今にも泣き出してしまいたいような、激しい苦しみに襲われた
 だから母がすすり泣く晩は、自分もいつも泣いていた。布団の中で胎児のようにくるまって、朝が早く来てくれる事を祈り、夜が明けるまで動かない左腕と左足を呪った。どうしてこんな体に生まれてきたのか、どうして学校の友達のように健常者(あたりまえ)に生まれなかったのか、そればかり思って奥歯を食いしばり、そして延々と泣いた。自分の嗚咽が聞こえる内は、母のすすり泣きを聞かなくて良かったから。
 あの夜も、そうだった。
 夜、理由もなく目が覚めると、それは母がすすり泣きを始める前兆だ。あの夜も、そうだった。真夜中、ベッドで仰向けに天井を見上げた時、もう限界だな、と思った。毎日毎日、積み重なっていた黒々と渦巻く感情が、小さな胸の内で一杯に詰まっていて、今夜一晩も持たずにはち切れてしまいそうだった。そうなったら、自分はどうなるのだろう。揺れるレースのカーテンの向こうに、身を投げてしまうのだろうか。自然とまた、涙がこぼれて、噛みしめた歯の奥から嗚咽を漏らす。いっそその方が、母と父のためかも知れない。自分のこの忌々しい動かない手と足が、自分の命と共になくなってしまえば、きっと、母がこれ以上悲しんだりする事もなくなる――――
 
 そこからの記憶は、酷く曖昧だ。
 
 ただ、気がつくと自分は真夜中の街を、裸足で駆けていた。息を切らせ、苦しい胸を押さえながら、ただ、導かれるように走った。それは決して自分の意思ではなかった。微かな――――本当に微かな記憶では、動かないはずの左手が、あの時はなぜか動いていた気がするのだ。進む道を指し示すように、左手は体の前に伸びていた。まるで、誰かに手を引かれるように。
 郊外にぽっかりと空いている、昔の戦争で出来たというミサイル着弾痕(クレーター)の中で、その夜を過ごした。色濃い群青の夜空は高く、広く、星がまたたき、風に撫でられた周囲の草原が静かなさざ波の音を立てる。街の明かりが届かない暗闇は、ゆりかごのように心地よかった。
 そうして朝を迎えると、朝日と共に祖父が現れた。あの時の祖父の手もまた、誰かに導かれているように、差し出されていたと思う。
「――――苦しいか」
 祖父は長い沈黙と、戸惑ったような表情の果てに、それだけたずねた。自分は首をふったと思う。がたいが良かった祖父は、しゃがみ込むとその大きな体で自分を抱きしめてくれた。その温もりは、一晩過ごしたその夜の心地よい暗闇と、よく似ていた。
 あの瞬間、動かなかった左手に、何も感じないはずの左手に、なぜか温もりを感じていたのを覚えている。陽光の温もりか、祖父の体温とも違う。ひんやりとした――――でも、人の温もりだった。

 それは左手に残された最後の記憶だ。

 あれ以来、左手は温もりを感じる事もなくなった。






























 コール音がした。

 電気ショックでも加えられたみたいに目が覚める。
 体育館みたいに高くて広い天井、ワックスの引かれた木床の冷たい感触、四方の壁に並ぶ採光窓から射す朝の柔らかな日射し。窓枠に止まったスズメが、ちゅんちゅんと井戸端会議をしながら、飛び跳ねている
 彼――黒瀬完爾(かんじ)が身を起こし、辺りを見渡すと、そこは武道場だった。ただっぴろい空間は静謐で冷涼な空気と、かすかな木の匂いに
満たされている。黒瀬の所作に合わせて床が音を立て、その音が張り詰めた空気に反響する。ぼんやりとした頭で「ここは……」と考えて、思い出す。祖父の屋敷の、離れにある武道場だ。天井際にずらりと並んだ採光窓から、陽光が目を突き刺さっていた。その光を手で遮りながら、腕時計を確認した。デジタル表示のそれが音もなく針を進めている。眼前にかざすと、薄いブルーの立体映像(ホログラム)が宙に文字を描き出した。

 <A.C.2078 April 08:32........ >

 何をしていたんだっけ。寝ぼけてそう考えた。頭にかぶっていたフードを払った時に記憶が
よみがえ
蘇る。そうだ、夜が明ける前、外にランニングに行ったんだった。ここに帰ってきてから、倒れ込んで横になっている内に眠ってしまったみたいだった。汗びっしょりになったウィンドブレーカーが、春先の風にあおられてかすかに揺れる。少し、肌寒い。立ち上がりざま、武道場の片隅にある鏡に映った、自分の姿を見る。
しょうすい
 硬い床での睡眠は、酷い寝不足と体力消耗を引き起こしたらしい。憔悴しきって、クマが目立つ顔。都会の路地裏で生ゴミをあさる野良猫みたいな顔つきをしている。長い間はさみを通していない髪は乱れきってまさに汚れた黒猫そのもの。右手で顔をぬぐう。左手は体の前で吊っていて、灰色の吊り紐がぶらぶらとゆれていた。動かないのだ。幼少時に麻痺して以来、ぴくりとも動いた事はない。
 コール音。
 けたたましいその音が、かすかに屋敷の居間の方から聞こえる。黒瀬はうっとうしそうにその音源に目をやって、それから、胸元に手を伸ばした。そこには透明のプラスチックで出来たアイウェアが入っている。研究者や技術者がつけるようなしゃれっ気のない無骨なそれを、耳にかけた。
 途端、黒瀬の周囲にコバルトブルーで半透明のタスクウィンドウが浮かび上がった。子供がはしゃぐような電子音がする。ウィンドウは彼の周囲をビーナスの誕生を祝う天使達のようにくるくると舞い踊る。それぞれのウィンドウには透き通るような声で歌う歌姫が立体化されていたり、降水確率とNMエーテル濃度をグラフにして解説している気象予報士が動いていたり、飛び出すアニメーションが新商品の名を叫びながらうるさくぴょんぴょん跳び回っていたりする。
「オールカット。コール」
 黒瀬は横に手を振ってそうつぶやく。するとやかましくがなり立てていたウィンドウの群は次々と消えていき、代わりに屋敷の奥からデフォルメされたヘッドフォンマイクの立体映像(ホログラム)が滑りこんできて、黒瀬の首にからみついた。眼前に音を立てて起動したウィンドウを、黒瀬は右手の指で叩いた。受信、というグリーンの枠で囲まれた文字がぺかぺかと点滅する。
『コールは五回以内でとれ』
 ぶしつけにそう言う電話の相手に、黒瀬は小さく舌打ちした。タスクウィンドウには壮年の男が浮かび上がっている。枯れ木のようにやせて、とがった顎。落ちくぼんだ目に小さく、だが頑なな意志を据えた眼がぎらついている。短髪をオールバックにした黒髪。スーツを折り目が見える程きっちり着こなす。その映像の下には、通信相手の名前が表示されている。
 "父"
『眞子がそっちに向かった』
 黒瀬は屋敷に続く渡り廊下へ向かいながら、その凶報に嫌そうに視線を明後日へ飛ばした。
 彼が一歩歩く毎に、ぎしぎしと左足の関節が音を立てた。足を上げる度、パンツの裾があがってくるぶしがあらわになる。焦げ茶色をした、合成樹脂の義足。
「なんで。呼んでないのに」
『本人に聞け』
 たずねたって答える物かと黒瀬はイラ立った。ろくに顔も覚えていない父が再婚すると聞いたのは去年の暮れ。知った事かと思っていたが、祖父が死んで以来、父の新しい家族は黒瀬にちょっかいを出すようになった。再婚相手の家族と円満な関係を築きたいのだろうが、血でつながっているはずの父と息子がうまくいっていないのに、そんな事が出来ようはずもない。
 特に義妹は――義妹といっても同い年だ。黒瀬の方が三ヶ月生まれるのが早かっただけ――それがどうもわからないようで、ことある毎に黒瀬が住むこの屋敷にやってくる。その上口べたなのか気が弱いのか知らないが、おどおどしてまともに口を利かない。黒瀬だってよく喋る方じゃない。結局お互い無言でお見合いになり、気まずい思いをするのは黒瀬の方だ。
「わかってるんだぞ。あいつを使って、俺をたらしこもうって腹づもりなんだろ。なにやったって、そっちの家には死んでも行かないからな」
『相変わらずだな』
 久しぶりにあった息子の変わらぬ姿に喜ぶ声ではない。抑揚もなく、低く抑えられた声音。
『妄想病(パラノイア)だな。屋敷の中に閉じこもって、自分以外は全部敵だと思い込んでいるが、その実は弱くて脆くて、ただのわがままなガキだ。いまのお前に必要なのは"首輪"だ』
 腹の内がかっと熱くなった。黒瀬の腹の中いっぱいに詰まっていた炸薬が、父の言葉で一気に燃え上がる。
「何が首輪だこの野郎……! 好き勝手して俺を捨てたのは、お前だろ!」
 受話器のホログラムの向こうで、父が鼻で笑う気配がした。
『だから迎えに来てやってるのに、お前が意地を張っている』
 わき起こる怒りが押さえつけられない。拳をぶるぶると震える程握りしめ、噛みしめた奥歯の奥からこし出すように言葉をはき出す。
「俺に"首輪"をかけようとしたら、そいつでお前を絞め殺してやる――!」
『できるならな。用はそれだけだ』
 早々に切り上げようとする雰囲気をさっして、黒瀬は「待てよ」と声を荒げた。
「爺ちゃんの葬式も顔出してないのに、こんな事で電話してくんなよ。線香くらい上げに来たらどうなんだよ。お前の親だろ!」
 返事を待ったが、いっこうにそれはなく、気がつくとコールは切れていた。黒瀬は小さく、口汚く毒づくとウィンドウを乱暴に操作してこちらからの通信も切った。



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