「脳だ」
以前、ジョーと落ち合ったのと同じ席で再会した彼は、黒瀬が席に着くなりそう切り出した。
「本当だった。あれは脳だ。脳だったんだ」
ジョーはいつものうっとうしいくらいの笑みを浮かべておらず、蒼白になった顔面を何度も両手でぬぐいながらそう繰り返した。偏執的な、異常行動に見える。まるで薬中だった。
彼とこのファミレスで話したのはほんの数時間前だと黒瀬は思っていたが、日和に寄れば、実際にはもう三日も経過していた。最後にあのワールドメイカーなる男にゲームから追いやられて以来、自分は知らぬ間にずっと気を失っていたらしい。気分が悪いのは三日間飲まず食わずだったからだろうが、食欲も何も湧かなかった。ただ、彼女がいない事だけが唯一最大の苦痛だった。
「聞いてくれ、黒瀬君。大変な事だ。これは大変な事なんだ」
神経が高ぶっているらしいジョーは、青い顔をしながらそう言った。黒瀬はそんな事より、と言葉をかぶせる。詳細にコーディがいなくなった事を伝えると、ジョーは額に手をやって首を振った。
「わからない……わからないが、最悪の事態が起きているのは間違いない」
「落ち着いて説明してくれよ。何が分かったんだ。知ってる事は全部教えてくれ」
言葉は刺を帯びていた。それはわかっていたが、どうしようもない。気が高ぶっているジョーと同じく、黒瀬は自分と彼女の身に起きた事で神経をすり減らしていた。ジョーは一度頭を振ると、口を開く。
「……覚えているかい、この間見せた、フォース22についてのレポート。僕はあのレポートを書いたジャーナリストにコンタクトを取ったんだ。だけどセルネットを介して連絡がついたのは家族で、彼はつい最近不慮の事故で死んだと言われた」
ジョーはユビキタス機能を起動し、半透明のタスクウィンドウを指で操作していく。螺旋状に積み上げられたウィンドウのタブを人差し指でなぜながら、何かを確認している。
「リークスネットに機密保険(インテル・インシユランス)というシステムがある。これは僕らジャーナリストが秘密を探っている相手から謀殺されたりするのを防ぐために、自分の身に何かあったら公開する機密を、あらかじめ設定しておくってシステムなんだ。このジャーナリストも何か機密保険をかけているんじゃないかと探ったんだが……おかしな事に、死ぬ一週間前に保険を全て解除してしまってる」
話が見えない。どういう事だ?
「彼が死期を予期する何か特殊な能力があるのでなければ……彼が死ぬのを知っていた、もしくは演出した奴が消したんだと思う」
「殺されたのか!?」
ジョーは「静かに」と声を潜めていった。
「とにかく、僕は彼が何を機密保険にしていたのか知ろうとした。それで家族に直接電話でコンタクトを取ったら、彼が持っていた旧型の外部記憶装置なら残ってるって言われた。他は葬式屋と一緒に来た廃品業者が持って行ってしまったと……これもおかしな話だ。とにかく、記憶装置を送ってくれと頼んで、送られてきたのがこれだ」
ジョーは胸元から小さな容器を取り出した。透明で、中に目玉のような二つの黒い塊がある。
「なんだ、これ」
「カセットテープだ。八十年以上も前の骨董品だよ。その何者か知れない廃品業者は、これをゴミか何かだと思って回収しなかったようだ。実際、僕も苦労して再生装置を見つけて聞いてみたけど、幽霊が呻いているような音がするだけでわけがわからなかった。だけどこのテープに記録されている磁気情報をある法則に従って変換ソフトにかけると」
ジョーは螺旋状に並んだタブから一枚のタスクウィンドウを取り出した。それは彼の手の中で映画のフィルムアイコンに変わり、自分がムービーである事を主張する。
「四重に圧縮された映像データが出てきた。それも、これは共感映像(トレスエクペリメンス)だ」
ごく最近、映画の宣伝などでよく耳にするようになった言葉だった――――共感映像(トレスエクペリメンス)。まるでその場に自分がいるかのように、記録された状況を追体験できる記録形式(メディア)のことだ。
「映像には、フォース22が頓挫した原因である事故の様子が納められている」
黒瀬ははっとした。フォース22計画は、祖父が参加した、アウターワールドの前身となる計画だ。基幹システムは完成していたが、重大な事故によって計画は頓挫し、事故の内容は不明のまま。その事故の概要がわかる映像だというのか。
「なにがあったんだ。事故って、なんだったんだ」
ジョーはひとしきり視線を落として何か思い悩んだ後、顔を上げた。
「僕の口からは言えない。信じてもらえないだろうから……いいかい、ここに記録された映像は、君にとってとても――とてもショッキングな物だと思う。共感映像から受ける影響は立体映像(ホログラム)なんかよりはるかに過大だ。見るかどうかは君に任せる」
ジョーは黒瀬の目をじっと見つめた。脅しではなく、本当に危惧している目だった。黒瀬は視線を逸らし、一瞬だけ迷ったが、頷いた。不安はあったが、それよりも知りたい事があった。祖父の秘密、アウターワールドの秘密、そして、彼女の秘密――――全てを知るためには、これを避けては通れないだろうと思った。
「頭を」そう言うと、ジョーは黒瀬の頭に手を添えて、フィルムアイコンを手にした。黒瀬の頭にアイコンを近づける。皮膚に触れると、映像は溶け込むようなエフェクト共に、頭蓋の中へ滑り込んでいく。
「君はフォース22計画の主任研究員の視点を借りて、この記録映像を見る事になる。いいかい、決して目を逸らしてはいけない。これがフォース22の――――アウターワールドの真実なんだ」
彼の言葉が終らないうちに、黒瀬の意識は遠のいていく。
今日もまた、あなたの予想を超えていく――――Shaft enterprise Japan
*共感映像をご覧になる皆様へ*
この度はShaft enterprise Japan製 共感映像のご利用ありがとうございます。
本メディアは記録者の全感覚(クオリア)を追体験し、極めてリアリティのある仮想シチュエーションをお楽しみいただけます。再生者様(あなた)は記録者の経験した全ての事象を、まるでその場にいるかのように追体験する事が出来るのです。これまでに無い、全く新しい形態の映像コンテンツを、心ゆくまでお楽しみください。
!! Warning(警告) !!
※本メディアは記録者が記録した体感全てをフィルターを通さず再生者にフィードバックします。このため、「記録者が殺害された」等の危険な映像の再生により、予期しない強いフィードバックを受ける可能性があります。発行者の不明な共感映像(トレスエクペリメンス)は絶対に再生しないでください。また、万が一再生により痙攣や、てんかん、意識混濁などの症状が現れた場合、すぐさま使用を中止し、医師の適切な治療を受けてください。なお、映像の内容により生じた神経損傷や、精神的疾患、心的外傷後ストレス障害などは、当社の免責事項です。あらかじめご了承ください。
お待たせいたしました。映像の読み込みが完了しました。
再生が自動的に開始されます。しばらくお待ちください。
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「――主―――に―――――任、主任、主任?」
肩を掴まれた感触。宙に浮いているようだった五感の感覚が、地面に叩きつけられたように体に戻って来た。一瞬激しくなる動悸、荒れる呼吸――――だがそれもすぐに大人しくなった。感覚を確かめるように、右手を眺めた。見ると、それは普段見慣れた自分の手ではなく、節くれ立った、壮年の男の手だった。手首まで、真っ白な袖口が覆っている。体に目をやると、肩幅の広いからだが、白衣に覆われている。左手も動く。どうなってるのかと顔に手をやると、がさがさした感触が手のひらの上に広がった。……髭が生えているらしい。
「主任、よろしいですか?」
声の方へ振り向くと、自分と同じ白衣を着た若い女が、いぶかしげにこちらを見上げていた。眼鏡の奥の神経質そうな目を細めている。「医務官のアンです」と彼女が自己紹介すると、自分の意に反して「……始めてくれ」とがらがらとかすれた男の言葉が口から飛び出した。
――――これが、共感映像(トレスエクスペリメンス)か
つぶやくと、声ではなく認識として言葉が浮かんだ。不思議な感覚だ。コーディと言葉を介さずに会話する時の感覚に近いかも知れない。自分は、過去にいるのだ。記録されていた過去に、その場にいた誰かの体を通して存在している…………
ある程度は自由に体を動かせるらしかった。辺りを見渡すと、そこは六畳くらいの狭い部屋だった。冷たく、薄暗いコンクリートに覆われた小部屋だ。同じ白衣姿の男達が五、六人いて、皆一様に一つの方向へ目をやっていた。視線を追うと、壁一面を覆うようなガラスがはめ込まれていて、それを一枚挟んだ向こうに誰かがいる。精神病棟のように気が狂いそうなくらい真っ白な部屋に、事務用の灰色のデスクを挟んで二人の男が向かい合っていた。一人は浮浪者のようにぼうぼうと生えた髪とひげ面で顔がまったく見えない。もう一人は眼鏡をかけた真面目そうな男だ。
『……それじゃあ大尉、名前をもう一度教えてくれるかな』
真面目そうな男が声をかけても、浮浪者同然の男――大尉?――はうつむいたままだった。かすかに身じろぎすると、彼の手にかけられた手錠が、じゃらじゃらと音を立てた。「担当医師のグッドスピードです」と、唐突に横の女が言った。どうやら、真面目そうな男の事を言っているらしい。ニックネームか何かなのようだ。
『……大尉、名前を』
『いつまでこんな実験を続けるつもりだ』
真面目そうな男――グッドスピードが焦れたように言葉を重ねようとすると、大尉の口が動いた。黒瀬は思わず眼を細めた。そのくぐもった声は、どこかで聞いた事がある気がしたのだ。
『だから、何度も言っている通り――――これが現実なんです』
グッドスピードの声には徒労の果てににじみ出た疲労が聞き取れた。大尉は身じろぎもせずそれを黙殺した。低い声で、もう何百回と繰り返した念仏のようにつぶやく。
『……現実に、返せ』
グッドスピードはため息混じりに頭を振る。
『いいですか、大尉――フォース22実験はもうずっと前に終っているんですよ、大尉。あなたは既に仮想現実をログアウトし、現実の世界にいるんですよ』
ありえない。大尉は静かに首を振った。
『違う、これは現実じゃない。俺にだって現実と仮想空間の違いくらい、感覚的にわかる。ここは現実じゃない。夢みたいに霞んでる。世界と俺の間に、膜が張ってるんだ。空気だってあるかどうか疑わしい。光も、声も、感触も、存在も、全部嘘つきだ。霞んでる――――』
『それは戦場を経験したあなたが、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症しているからです。あなたが経験した戦場での出来事が、あなたの精神を守るため、現実にフィルターを張ってしまっているんです。それは仮想空間の違和感とは違うんですよ――――さぁ、ご覧なさい』
グッドスピードは手元のカルテを大尉の方へ差し出す。
『六ヶ月前、あなたはSADの一員として重要な戦略地点だったガ島に潜入しましたが、その一ヶ月後に部隊は消息を絶っています。それが一週間前、ようやくあなただけが救出された』
『それがシミュレーションだっただろう。仮想現実空間を利用した上陸前作戦、橋頭堡の確保のシミュレーション訓練。作戦はシミュレーションによって不備が指摘された。現実に返してくれ、これはなんの追加目標(オプシヨン)なんだ? 帰って、結果を上げないと――――』
『何度も言うように、その訓練は既に終了していて、あなたが参加した作戦は現実のものなんですよ。あなたの部隊は、実際に作戦に失敗し、この六ヶ月の間に、ガ島で文字通り全滅したんです。それが現実なんですよ』
大尉はカルテをのぞき込もうともしなかった。彼の手が揺れて、手錠の鎖が静かに音を立てている。グッドスピードはカルテをしまうと、彼にゆっくりと話しかける。
『……大尉、中村二曹の葬儀に今日お連れしたでしょう。あなたの部下の式に、これからまたお連れする事になると思います。ご家族の悲しまれる姿だって見たはずでしょう。あれも、仮想現実上で再現されているシミュレーションだと言うんですか』
ぶらぶらと揺れ続けていた鎖の動きが、止まる。声色が沈む。
『――――この仮想空間は、あらゆる現実の出来事をシミュレーションできる。一人の人間が生まれて、生きて、死ぬまで、それすらシミュレーション可能だと、そう言ったのはお前達技術部門(テクニカル)だろう。これもシミュレーション。何のテストかは知らんが、もううんざりだ。いい加減このくそったれなシミュレーションを止めてくれ。現実に返してくれ』
グッドスピードが再び終着点のない説得の言葉を紡ぎ始める。積み上がれば崩される石積を、もう一度最初からしているようなものだ。
「彼は医学的には完全に正気です。ですが――」
傍らの女が眼前の光景を今にも顔を伏せたそうな目で見つめて言った。黒瀬の体が意に反して動く。ガラスに手をかけ、かすれた声を上げる。
「――――彼は完全に現実感を失ってる」
そう言った黒瀬の前で、大尉がゆっくりと顔を上げた。顔を覆っていた縮れた汚い髪が重力に引かれて、彼の顔から滴り落ちた。もし、声が出せたのなら、黒瀬はその瞬間暴れ狂う驚愕で叫んだだろう。だが彼に出来たのは、瞼を震わせて見開く事だけだった。声にならない言葉を、悲鳴のようにはき出す。
なんで―――――――どうしてここに、爺ちゃんがいるんだ!?
痩けた頬、落ちくぼんだ目、かすれた声に、半濁した瞳、顔中に泥を塗ったような汚れや染みがまみれていて、野人か、末期の病人のように見える。だがそれは紛れもなく、祖父だった。あの遺影の笑顔の残滓をこれっぽちも残していない、しかし、祖父の顔だった。椅子に縛り付けられた祖父は、じっと偏執的に、こちらを見つめていた。あまりに別人になり果てた彼の目に、黒瀬は身がすくんで動けなくなった。
「……これは明らかにシステムの副作用だ。スキャンの数値は、感覚質(クオリア)が現実のそれと仮想空間のそれで逆転している事を示している。彼にとっては、現実が仮想空間で、仮想空間こそが、現実になってしまっている」
意に反して口から出る声も、どこか震えていた。女が意を決したように顔を上げて、「計画(フォース22)はすぐに中止にすべきです。他の被験者も、あの子も――」と切羽詰まった様子で言った。黒瀬の首から上が勝手に動いて、頷いて返そうとした、その瞬間、突如ガラスの向こうで椅子が転がる派手な音が上がった。
『うあッ!? な――――や、やめろ!?』
目を向けた途端、どうやってか両手を縛り付けていた手錠ををふりほどいた祖父が、弾き出されたようにグッドスピードに向かって肉薄するのが目に飛び込んできた。グリズリーのような祖父の体が彼に覆い被さった瞬間、マイクが悲鳴のようなノイズを上げる。
『おいッ――――やめ――――がッ――スタッフを――早く!!』
「警備スタッフを入れろ!」黒瀬の喉が怒声を張り上げ、同時にかけだした。小部屋を飛び出し、防護服とスタンスティックを装備した警備員達と共に部屋になだれ込む。
「もう仮想空間(ここ)にはまっぴらだ!!」
視界に飛び込んできたのは、グッドスピードののど元にボールペンを押しつけている祖父の姿だった。荒みきった瞳が、獰猛な狂気の光をぎらぎらと輝かせている。
「ここから出してもらうぞ、現実に戻せ!! それともこいつに、喉をかき切られる感覚を教えて欲しいか!?」
ペンの先端を強く押しつけられたグッドスピードが怯えた悲鳴を上げた。黒瀬の右手が動いて、祖父を必死になだめようとその手のひらを彼の方へ向ける。
「よすんだ大尉! こんな事をしても無駄だ、ここが現実なんだ。君は一人だけで生き残った、部隊は全滅してしまったんだ、現実を認めるしかない!!」
それを聞いた祖父はぶるぶると震えて、それから顔を歪めた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ見えた、彼の身の内に巣くった深い絶望と苦痛が、凄惨な形相で浮かび上がったが、すぐにそれはかき消えた。
「……ここの奴らは皆外道だ。ここは外道共がすくう世界(アウターワールド)なんだ……俺の住む世界は違う!」
祖父の握ったペンが振り上げられ、辺りは騒然となる。
「現実に返してもらうぞ――――全部リセットだッ!!」
「よせ!!」
黒瀬の声と、口が、初めて同じ言葉を発した。だがそれはどこにも届かない慟哭だった。祖父の握ったペンが、勢いよく振り下ろされ、抱え込まれた人質の喉筋にたたき込まれる。引き裂かれたのど元から、口を押さえた蛇口のように血が吹き出し、周囲の阿鼻叫喚の悲鳴を覆い隠すように、辺りにまき散らされた。警備スタッフが一斉に飛びかかり、祖父の体を羽交い締めにした。現実に返せ、こんな所は嫌だ、現実に返せ――――祖父の乾いた叫びが、黒瀬の脇を通り過ぎ、部屋の外へ引きずり出される。呆然としていた。ただ狼狽して、血だまりの中で目を見開いている死体を見つめ続けた。スタッフ達が自分を通り越して、血だまりの死体へ駆け寄る。自分の右手が、顔でぬるつく血に触れた。視線の先の死体にはもう力はなく、だらりと腕が垂れ下がった。目を逸らすように、脇へ目を向けた。
そしてマジックミラーに映った自分の姿を見て、口を開いて、目を見開き、驚愕する。
見覚えがある顔だった。ロウで固めたような酷薄な顔、老眼鏡じみた金縁の眼鏡。一ヶ月程前の記憶がフラッシュバックするように蘇った。祖父の仏間の前で、神妙に語るこの男の姿、初めてであった時よりずっと若い、けれどそれでも、間違いない――――
麻戸刑事、その人の姿だった
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