次に目を覚した時に感じたのは、遠くに聞こえる太いエンジン音と、背中を小刻みに揺らす振動だった。視界には灰色の天井が見えて、目を動かすと、窓の外を繁華街の色とりどりの景色が流れていた。
「ねえ、訊いていい?」
身を起こすと、運転席の方から良く通る張りのある声がした。サングラスをした日和が、ハンドルを握っていた。彼女の周りを、速度計やナビゲーションマップを表示した拡張現実(AR)が、薄い黄色のウィンドウに包まれて、漂っている。交叉点にさしかかった車のフロントウィンドウには、青色を点灯させた信号のアニメーションが横切っていく。
汗でじっとりと濡れていた顔をぬぐった黒瀬は、自分の体から痛みが少し抜けている事に気づいた。「私に処方されてた薬。あなたにあげたの」、微かに振り返った彼女が、口元をもたげてそう言った。痛みは抜けたが酷くけだるい体を、黒瀬はシートに沈めた。それから、視線を彷徨わせる。
「ここは……」
「住所番号(アドレス)47xd190、ながれ通り(ストリート)の無人ファミレス――――君、ずっとうわごとでそれ言ってたから、今向かってるんだよ。誰と会うのか知らないけど」
黒瀬は彼女の顔をじっと見つめてから、ゆっくりと呼吸をもらすと、口を開いた。
「助けて、くれたのか……? 俺、あんたに酷い事をして――」
「コーディって、誰」
不意打ちだった。
思わず黙りこくった黒瀬を見て、日和は「やったわ」と、口元だけをもたげたシニカルな笑みを浮かべた。
「キミを驚かせる事ができた」
「……どうして、コーディの名前を」
日和はくすくすと鈴なりのような笑い声を口に含んだ。
「後部座席で何度もその名前を呼んでおいて、よく言うわ。私の前で他の女の名前を呼ぶ男は、キミが初めてだよ」
もちろん、冗談だけどね。と彼女はいたずらっぽく付け加えて、後部座席へ僅かに視線を流した。黒瀬は自分の口元をおおい、視線をそらす。どうやら、気を失っている間に彼女の夢を見ていたようだ。
コーディの名を聞いた途端、胸の奥で燃え広がっていた、焦りの熱を思い出す。震えて力の入らない拳を握りしめ、跳ね上がる鼓動をとどめようと、胸に押しつける。
「ただの失恋、ってわけじゃ、ないんでしょ。外側中毒(アウターホリック)がらみってことは」
日和の声は穏やかだった。努めてそうしているのが、よくわかった。表面上はまるで興味のない振りをして、でも本当は、黒瀬が苦しんでいる本質を、知ろうとしている。苦しまずにそれを吐き出させるいたわりの言葉を、彼女はよく知っているようだった。そうか、と思った。日和は知っているのだ。この外側中毒(アウターホリック)というやつを。彼女と自分はまったく生きる世界の違う、境界線の向う側の存在だと黒瀬は思っていたが、今や、彼女と自分はアウターホリック罹患者という薄暗い共通項があるのだ。
「……あんたは、そうだったのか」
胸のうずきに、内心喘ぎながら、黒瀬はそうたずねた。日和はまた、皮肉っぽい、乾いた笑みを浮かべる。
「私はちがうわ。お姉ちゃんよ。自殺したの。一年前にね。それがこじれてって、感じ――」
特に気負った風もなく、彼女はさらりと言ってのけた。そういえば、彼女のゲームワールドにログインした時、彼女は「おねえちゃん」と何度もつぶやいていた。荒縄を首にかけた、人形を手にして――――。
「それで、キミは?」
血液型でも訊いているかのような、気軽な調子で彼女はたずねる。黒瀬は、口ごもった。答えたくないと言うわけではなかった。いや、むしろ、外側中毒(アウターホリック)をよく知る彼女になら、全てを話してしまいたかった。自分の身になにが降りかかり、どんな苦しみを経て、"彼女"と出会い、そして、別れたのか――――この胸の内で暴れ狂う鋭い刃のような激情を、どうか、少しでも和らげて欲しい。
だが、言葉は口から出なかった。
わからないのだ。
自分は、何も、知らない。全ての始まりは、祖父の死だった。その死因を追ってここまで来た。だが、あの時から、何も知らないまま、何もわかっていなかった。驚く程多くの出来事とぶつかり合ってきたはずなのに、何も、知らないまま。
コーディ。
一ヶ月以上もの間、彼女と過ごしてきた。それこそ、頭の中にいたのだから、24時間ずっと一緒に。それなのに、彼女の事は何一つ知らないままだった。いったい、この数十日、俺は何をしていたんだ? 突然の出会いに、困惑しながらも、少しは理解し合えたつもりでいた、だが、突きつけられたのは、突然の別れ――――
「わからないんだ」
どれだけの間、日和は沈黙を残していてくれたのだろうか。ようやくこしだした言葉は、かすれきっていて、その上、情けない事に、微かに震えていた。
「俺は、ばかだ……何も分かってないのに、何でも知ったような口を利いて……なんにもわかってなかった、なんにも、なんにも――――」
胸の内で渦巻いていたどす黒い感情が、自分への怒りの熱に変わっていくのが分かった。奥歯を噛みしめ、拳を握りしめる。自分の愚かさが、許せなかった。のうのうと生きているこの身を、ぐちゃぐちゃに握りつぶしてやりたい――――
「怖かったんだ。あいつ(コーティ)が――あいつが俺を、どんどん知っていくのが。見られたくなかったんだ、俺の、弱くて、自分勝手で、情けない、本当の姿を。だから、あいつを知ろうとしたんだ。こそこそ隠れて、嗅ぎ回って――――あいつが隠したがって事を知ろうとして、それで」
黒瀬の鼻から、血が垂れだしていた。震える、瞳孔。彼自身は、まるで気がついていない。
「それで、俺は、あいつを、"犯した" ――――そうやって、傷つけたんだ」
支離滅裂な言葉の羅列だった。だが、黒瀬にとってそれは真実だった。自分の言葉が自分を傷つけているのは分かっていた。この意味不明な告白を聞いた日和が、心底自分を軽蔑するであろう事も。だけれど、そうして自分を断罪しなければ、この世にこうして生きている事すら、許せる気がしなかった。
車は静かに、赤信号に捕まった。
サイドブレーキを引いた彼女は、ただ呼吸を繰り返し、それから、棘を入念に抜いた言葉を、後部座席へ置いた。
「キミがした事は、人間だったら誰でも、する事だよ。誰かを知ろうとする事も、知られる事に怯える事も、誰だって、すること」
頼むから、慰めの言葉なんて、掛けないで欲しかった。沈黙意外のどんな言葉も、今は聞きたくなかった。だが、彼女のいたわろうとする心まで否定したくなくて、黒瀬は、必死に口をつぐんだ。
「人に関わる事に、怯えすぎてちゃ、何もわからないまま、誰にも知られないまま、一人で生きるしかなくなるよ」
「だから、そういう人間なんだよ、俺は」
あふれ出した言葉には、どうしようもなく、どす黒い熱がこもっていた。
「薄暗い、陰の世界の人間で……だから、ずっと一人でいれば良かったんだ。あの屋敷の外になんか、出ないで、じっとしていれば、よかったんだ。バカだったから、わからなかった。昼の世界で、いつか生きられると、思って、それで、あいつを、傷つけた――――」
日和の答えはなかった。対向車線を走る車のエンジン音だけが、無関心そうに車内に流れていた。
「私ね、替え玉(ゴーストアクト)なんだ」
車が再び走り出した時、日和が口にしたのは、まるで脈絡のない話だった。
「キミはぜんぜんアイドルに興味がないみたいだから、わからなかったみたいだけど――。springの本名って、桜木 日和じゃないんだよ。桜木 小春――――私の、お姉ちゃんの名前。ちょっとセルネットで調べたら、すぐにわかることなんだけどね」
床に注がれていた黒瀬の目が、はっと日和に注がれた。彼女の口元にはもう、貼り付けたような乾いた笑みは浮かんでいなくて、鏡を見つめているような、静かな表情をしていた。
「底抜けに明るくて、誰からも愛されて、ちょっと抜けてるけど、いつも自由に振る舞っている――――お姉ちゃんはそういう人だった。演じてもいないのに、アイドルって感じだった。私とは正反対だったな。実際、アイドルになったらすぐに頂点までのぼり詰めた」
車は、長いトンネルの中に入った。
車内に、さっと暗闇が覆い被さった。薄暗い、くすんだオレンジの光が、音を立てて流れ過ぎていく。光を失った運転席。時折フロントガラスで褐色の輝きが煌めくと、微かに彼女の表情が見えたが、その感情までは、読み取る事が出来ない。
「だから、自殺するなんて、思いもしなかったな」
くすんだオレンジの照明は、黒瀬の表情も、撫ぜるように照らしだす。言葉が出ない。
「今でも、死因は外側中毒(アウターホリック)だったって事になってる。お父さんも、お母さんも、事務所も、そう言ってる。だけど、そんなはずないって、私にはわかる。あんなに輝いてたお姉ちゃんが、どこか外国の、小さな貸部屋(レンタルサーバー)で――明かりもろくにない、あんな所で――首を吊ってた――太い、縄で――誕生日だったの―――わたしの―――」
黒瀬の脳裏には、彼女が作り出したという、あのゲームワールドの薄暗い世界が浮かんでいた。真っ暗な部屋の中で、たった一人、泣き崩れていた彼女の姿。
ふぅ、と彼女が小さく息を吐く音がした。
バックミラーに、顔をさっと手でぬぐう日和の姿が見えた。
「――――私は、助けてって、言って欲しかったな。本当はとっても苦しいのって、教えて欲しかった。でも、できなかったんだよね。それがきっと、お姉ちゃんの優しさだったんだと思う。私も、みんなも、元気で明るくて、悩みなんて 一つもないお姉ちゃんの笑顔が、大好き、だったから」
トンネルが終わり、視界が開けた。
その先にあったのは繁華街だった。道の両脇を睥睨するように高層ビルが建ち並び、青い空をその巨体で遮っている。その壁面を一面覆った大型ディスプレイが、大音響の音楽とともに、きらびやかな映像を映し出していた。"spring"のコンサート風景だった。現実拡張(AR)で会場をまるで別世界のように塗り替え、極彩色の光が飛び交う。観客達はその世界観に酔いしれ、歓声を上げて一体化している。そしてその中央で歌い踊るのは、晴れやかな表情のspringだ。
「知ろうとしないと、手遅れになる時もある」
明るい、日の光に照らし出された彼女の表情は、曇ってはいなかった。どこか凛とした、表情だった。
「私は手遅れになってから、こうして、お姉ちゃんの替え玉(ゴーストアクト)を演じて、少しでもお姉ちゃんが思ってた事とか、考えてた事とか、体験した事とか、知ろうとしてる。でも、やっぱり手遅れだよね――――波に洗い流された、砂浜に描いた絵をなぞってるみたい。どんなに演じても、私は、お姉ちゃんにはなれない」
知ってる? と軽い調子で彼女は訊いた。
「springの人気って、昔よりも、もうずっと、落ち込んでるんだ。キミも、知らないでしょ」
また、いたずらっぽく笑みを浮かべて見せた。ようやく、黒瀬にもわかった。彼女は、つらい時、苦しい時に、笑顔になる。彼女の笑顔は、彼女の本当の顔を隠す、仮面(マスク)なのだ。きっと、彼女の姉がそうであったように。
それから彼女は、ふっと笑顔をかき消して、静かな声で言った。
「キミのした事って、実はすごく勇気のいる事だったと思うよ。ただ、やり方が間違っていただけで」
車は速度を落とし、脇道にそれた。そこにあったのは、かつて黒瀬がジョーと密会し、そしてコーディについて、語った無人ファミレスだ。
「キミはぜったい、コーディって子と話さないとだめだよ。このまま別れちゃ、絶対だめ」
駐車場に車を止めた日和は、そう言いながら、黒瀬に無針注射を手渡した。胴体部分のケースに、薬品名が書いてある。どうやら、アウターホリックに一時的な効果のある薬のようだった。
「発作が来たら使って。でも急いでね、薬の効果は長くは持たないから」
手の中に押し込められた、無針注射を見つめる。これを受け取るだけの価値が、自分にあるのだろうか。胸の奥に巣くう、怯えは消えては無くならない。
「日和、俺」
「大丈夫」
どうしても、無針注射を握ることができない黒瀬の手を、白くてしなやかな日和の手が覆った。顔をあげると、皮肉っぽくも、乾いてもいない、でもPVで見せるような軽々しくもない、彼女の本当の笑顔がそこにあった。微かに持ち上がった口元、僅かに細められた目。濡れたような瞳に、明確な意思が据えてある。
「やれるよ――Ejecterなんでしょ、キミは」
この時初めて、黒瀬は排出者(イジェクター)という呼び名と、自分の存在が、ぴったりと一致したように感じた。どこか輪郭のぼやけていた自分と、アウターワールド(あの世界)の自分が、重ね合わさり、明確に、"ここ"に存在していた。
手中にあった、日和から渡された無針注射を握りしめる。
それに、と日和は何か言おうとしていたが、黒瀬の目を見ると、少し驚いたように瞼を押し上げてから、表情をもどして、うなずいた。
「ね、ちょっと――」
それから黒瀬の頬に手を当てると、運転席から身を乗り出して、黒瀬の頬に唇を押しつけた。とっさに事だったので、すっかり黒瀬はされるがままだった。彼女の唇は、思ったよりも、ずっと柔らかかった。頬に温もりを、鼻先に甘い果実のような香りを残し、彼女は言った。
「これ、嫌がらせだから」
「は?」
「行ってらっしゃい、イジェクターさん」
黒瀬は動揺して、頬が熱くなるのが分かったが、彼女の軽々しい表情から、からかわれたのだとすぐにわかった。表情をただし、ありがとうとだけ言付けると、車から降りて、ファミレスへ向かった。
その背をじっと見つめていた日和は、開いたウィンドウに肘をついて、つぶやく。
「……それに、大好きなんでしょ、その娘(コーティ)のこと」
日和の乗った車が駐車場から離れたのと入れ替わりに、黒塗りの乗用車(セダン)が乗り込んできた。それはゆっくりと、中を観察するようにファミレスの周囲を巡った後、中がよく見える角度の位置に、エンジンを掛けたまま停車する。
『対象(コーギー)がポイントに入った』
車の窓がゆっくりと開いた。イヤフォンを耳に押しつけ、運転席の老齢の男は、じっとファミレスの中へ視線を注いでいる。金縁眼鏡の老眼鏡に、落ちくぼんだ目、鋭い眼光、シワが深く刻まれた顔つき。そこに黒瀬がいたのなら、この男が知り合いである事に気づくのに随分かかっただろう。なにせ、この男が祖父の死の謎をつげに来たのは、一ヶ月以上も前の事だ。
『対象に接触』
男の耳元で、イヤフォンがわれた声でささやく。
『まだ消すな。待機しろ』
『本当に殺すのか? 本社のバックアップがないが』
『問題ない。合図で消せ』
低く、抑揚のない会話を聞き遂げた男は、コートの中に手を突っ込み、そこから黒金の回転式拳銃(リボルバー)を取り出した。弾の装填を確認すると、音を立ててシリンダーを銃身にたたき込んだ。
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