胸の奥が熱い
瞳を閉じると、真っ暗闇の中に胸の奥で激しく律動する熱い塊を感じる。吐き出す息を真っ白に染めるその熱は、のどを焼き、目の奥を熱くする。コントロールできない熱情の塊。早朝の外気の冷たさをめいっぱい浴びれば、この苦しみから解放されるのだろうか。あえぐようにそう思い、コンクリートの地面を蹴る脚にさらに力を込める。熱い、熱い、あぁちっくしょう――――あつい――――
瞳を開けた。
眩しい程に光を放つ、淡く赤みがかった黄金色の朝日が、眼下の街と自分を照らしだしている。
祖父の屋敷は小高い丘に位置していて、そこへ続く道は緩く長い曲線を描いている。一見するとなんのことはないただの坂のようだが、ランニングすると、走っている本人もわからないくらいゆっくりと体力を奪われ、頂上に着いた頃にはすっかり息が上がっている。
そこを全力疾走で駆け上がってきたのだ。
坂の頂上で、黒瀬は両膝に手をついて激しく荒い息を吐きながら、真っ白い塊を口から吐き出す。喉の奥が鳴っている。口元から垂れそうになる唾液を手の甲で擦り、フード越しの視線を地面に向ける。
「はあ、はあ、はぁ、ああ、くそっ、はあ、はあ、はあ――――」
自分で自分を痛めつけたのだ。トレーニングとはそういうものだ。
「はぁ、はぁ、はあ、はあ、はあ、はあ――――」
だがそれにしても
今日の自分はやり過ぎ立ったんじゃないか
なかなか落ち着かない動悸と荒い息。ふるふると震え出す限界を超えた筋肉、そして、胸の奥で律動する身体を焼くような熱――――あぁ、くそ。この熱。この、熱――――どうしようもなくわき起こる、この熱はいったいなんなのか。得体の知れない熱の塊が、うずく。顔を上げた黒瀬は東の空から群青の空をオレンジに染め上げようとしている太陽に、フード越しの目を向けた。街角で残飯をあさる野良猫のような目が、黄金色に染まる。あぁ、畜生。まったく、あの太陽が、俺の腹の中に潜り込んでるみたいだ。いまいましげに黒瀬は陽光と視線の間にフードを降ろすと、太陽から逃れるように、日陰の中に潜り込んで歩き出した。
なんなんだ?
ほんとうに、まったく、なんなんだ?
この"熱"は、いったいなんなんだ――――
屋敷の台所では、髪を一つ結びにして花柄のエプロンをかけたコーディが、ホイッパーを手にピンクのテキストウィンドウを眺めながらせわしなく動き回っている。もことことしたウサギをあしらったスリッパが、少々サイズが大きかったらしく、歩くたびにぽこぽこと細いかかとに当たって音を立てる。
彼女は雑誌(マガジン)状に広げられたウィンドウに眉根を寄せて真剣な目を向けている。
「…………」
別に忍び足で忍び寄ったわけではない。何の気無しに運動後に水でも飲もうと台所に寄っただけのはずなのに――――黒瀬が台所に足を踏み入れ、彼女のその少々間抜けな様を困惑と呆れの入り交じった表情で見つめている事に、彼女自身は一向に気づいていない。
「変、だなぁ……まちがってないはずなのに…………??」
ぶつぶつとつぶやいている。
「ぇわっ!?」
それからしばらくたって、黒瀬がとにかく水だけでも飲むと動き出した所で、ようやくコーディは彼の存在に気づいた。目がぺかぺかと黄色に輝き、文字通り飛び上がって驚く。一本まとめにした髪の毛まで飛び上がっているのは一体なんなのか。黒瀬は努めて何事もなかったかのように粛々とコップの水をあおった。何も見なかった。そう言う事にしておくのが一番だと思った。
振り返ると、調理器や失敗作の乗った皿、それにこぼれた食材やら何やらで雑然としていた台所は、それこそまるで何事もなかったかのように元通り、殺風景なものに変わっていた。全てはユビキタスが作り出した拡張現実(AR)だったらしい。現実世界でいろいろな作業をシミュレーションするためのポリゴンやソフトがある事は知っていたが台所を占領する拡張現実なんて初めて見た。
「ちがうんです」
とにかく、なにもなかったんだ。そう思って黙ってその場を後にしようとすると、コーディが視線を明後日の方向へ落として、ばつの悪そうなふて腐れた顔をして言った。
「あの……」
何か明瞭な言葉を繋げようとして開いた口をやっぱり閉じたり、また開いたりする。
アーモンド型の大きな目をせわしなく瞬かせながら
「…………ちがうんです」
「いいから」
ぐい、と黒瀬はその身体を押しのけて、廊下に出た。ランニングでなんとか少し冷ましたはずのあの得体の知れない律動がまた始まった気がした。胸をむっと押さえつけ、廊下をのしのし歩く。
「リハビリは続けるんですよね!」
背中に甲高い声が叩きつけられた。まさに"ままよ!"とばかりに、近所迷惑もへったくりもない思い詰めた言い方だった。思わずぎょっとして、立ち止まった。
振り返ろうと思ったが、なんだか、振り返るのが、怖い。
「デート……ダメになって、しまいましたけれど」
背中から頭の先まで、ぞくぞくとした悪寒が駆け上がっていった。まさか、と思った。まさか、これ、コーディが言ってるのか? 振り返り、それを確かめればいいのに、身体は硬直して動かない。驚くほかない。今、彼女が発したと思しき声には、はっきりとしょげ返った気持ちが上乗せされていたのだ。
あっ
律動と熱が、また胸の奥でずくずくと暴れ出す。なんでこんな時に――――! 黒瀬は胸を一つ強く叩き、熱をともなったうずきを押さえ込もうとする。
「でも、終ってませんから、コーディネートは――――リハビリも、ええ、そうです、続けないと、意味がありませんし、それに」
もはや黒瀬はこの場から離れたい一心だった。早くなる律動に急かされるように、黒瀬は何度も頷いてよこす。
ぱっと華やいだ雰囲気が、背中で花開いた。
言葉など無かった。だが雰囲気が明らかに変わったのだ。好奇心が怯えを上回った。びくびくしながら、おそるおそる振り返る。ぎょっとした。コーディは背を向けていた。だからその時、どんな表情をしていたかすらわからなかった。だが、彼女は跳ねていたのだ――――両手を背中の向う側――おそらく胸の前にやって、脚を小さくおりまげて、ぴょんっと。
もうそこで我慢の限界だった。
黒瀬は逃げるにばたばたと足音を立てて廊下を駆け抜けると、素っ転びそうになりながら自室へ続く階段を転がるように駆け上っていった。扉を閉める大きな音がすると、コーディは音の方へ振り返り、その無表情顔に疑問符を浮かべて、不思議そうに「クロセ?」とつぶやいた。
『彼女の本当の名は、アマタだ』
本当の名って、なんだ
コーディはあいつの名前じゃないって言うのか
じゃあ、あいつはいったい、なんなんだ――――
ベッド脇に顔を押しつけて、自室にこもったクロセは胸の動悸をなんとか押さえようとしていた。数日前――――いや、精確にはDr.のメールを受け取ってからか。突発的に、不規則にわき起こるこの得体の知れない熱のうずきは、最近はついに押さえきれない程になってきた。この律動が、もし自分の中で勝手気ままに動き回りはじめたら、一体自分がなにをしてしまうのか、まったく想像がつかない。恐ろしくて仕方がなかった。おそらく、メールには何かウィルスが仕込まれていたに違いなかった。それが自分の脳を浸食して、何か得体の知れない事をさせようとしている――――
特に酷いのは、コーディに接した時だ。最近の彼女もまた、なにかおかしい。
時折無防備に笑顔を見せる事も多くなった。これまで機械然としていた無表情顔に、微かに、だがはっきりと"思い"が見え隠れするようになった。画一的だった動きに個性も出てきている気がする。彼女が固く胸の奥にしまっていた、子供っぽいユーモアさが、小さな所作一つ一つににじんでいるのだ。少しずつ、彼女の仏頂面だと思っていた鉄面皮の表皮がはがれてきている。そこから見え隠れする彼女の姿は、今まで黒瀬が抱いてきた機械然としてクールな彼女の姿からはかけ離れたものだ。もっと悪魔的で、いたずらっぽい、意地悪な笑みを浮かべている気がする――そう、楽しそうに。本当の彼女は、実はもっと明るくて愉快な、"女の子"なんじゃないか?
ほんとうの、彼女は――――
Dr.のあの一件を解決して以来、激しくなる胸のうずきに合わせたように、黒瀬の頭の中はコーディへの疑念がふくらんでどうしようもなくなっていた。一ヶ月と少し前、突然頭の中に住み始めた『小さな妖精』は、次第に黒瀬の中で存在がふくらんでいき、これまでたった一人、自分の事だけを考えていれば良かった黒瀬の生活を少しずつ浸食していっている。だがそれに反するように、彼女への疑念はふくれあがっていく。
彼女と手をつないだ時に突如蘇った幼い頃の記憶、Dr.との取引で祖父の情報を退けて彼女を守ってしまった事、Dr.の「愛」の指摘に、彼女の『本当の名』……彼女を巡る疑念は複雑に絡み合い、今では毛玉みたいにこんがらがってしまった。
これまでは彼女の事など……いや、他人の事など深く考えた事もなかった。興味がないというわけではない。他人を思いやる程自分に余裕がなかった。自分の事で手一杯。今だってもちろそうなのだが、現在のコーディはこれまで黒瀬が接してきた『他人』とは明らかに、その重さも、深さも、まるで違っていた。彼女の方へ――――いや、お互いに踏み込みすぎてしまったように思う。祖父の過去を捨てて彼女を選んだ時、それは決定的になった。これまで二人の道は交わることなくまっすぐだったのに、気がついたら交わった挙げ句に一つになっていた――――そんな感じだ。
『彼女の本当の名は、アマタだ』
…………もし、もしDr.のあの一言がなかったら、黒瀬は彼女とある程度良好な関係を築いて、それで終わりだったかも知れない。だがこの一言が黒瀬の彼女への思いを濁らせた。
彼女は一体、何者なんだ?
その疑問が頭をもたげた時、彼女と親密になるのが途端に恐ろしくなった。彼女は自分の脳の中に住んでいる。だから自分の全てを知っていると言っても過言ではない。だが、彼女には隠し事がある。無感情に見えてむしろ感情的で、自分の事を思いやってくれていて、酷く人間くさく怒る時もあって、…………彼女の手の感触を、自分は覚えている。それらが意味する事は、一体――――
現実に帰ってからも、彼女との距離感がはかれず、ぎくしゃくしてしまう。頭では彼女がただの模造品(プログラム)だというのは分かっているし、そう理解している。だが、理性ではない、どこかもっと直感的なところで、そうではないと思っている。彼女を人間として扱おうとしてしまう。その不一致がぎくしゃくした関係を生んでいた。コーディはそんな自分の思いを知ってか知らずか、時折無防備に笑顔を見せる事も多くなっていた。そうやって彼女が近づいてくれば来る程、だんだん怖くなった。
『彼女をスリープモードにするスクリプトを用意した』
ベッドから顔をあげた黒瀬の手には、真っ黒なウィンドウが握られている。コマンド入力を待機するカーソルが点滅している。ウィンドウの上部には、スクリプト名が短く表示されている。
sleeping beauty(眠り姫)
『彼女に知られたくない事をする時に活用すると良い。浮気したり、隠し事をしたり、逆に――――隠し事を探ったりする時にね』
黒瀬は手にしたスクリプトウィンドウをじっと見つめる。胸のうずきは、強く、深く、激しくなるばかりだ。
■
「フォース22?」
無人ファミレスの片隅で、身を乗り出して黒瀬の話を聞いていた件のフリーライター……ジョー・ブラッドレーは、そう興味深げにつぶやいた。対面に座った黒瀬は、頷いて返す。
無人ファミレスが登場したのはおよそ十年前。機械化が進んで、人に出来る事と機械に出来る事の比率が五分五分くらいになった頃だ。作りは簡単で、没個性的なパステルカラーで統一された店内に入り、これまた没個性的な席についてタッチパネルとなっているテーブルでメニューを注文するだけ。後はそれぞれのテーブルに設置されたシューターに料理をのせたコースターが滑ってくるのを待つだけである。無論、完全無人化ではなく、数人のスタッフがいてピーク時などは彼らが活躍するわけだが、午後四時という微妙なこの時間ではそのスタッフ達も皆バックに戻って雑談をかわしている頃だろう。結果的に、店内にある人影は黒瀬とジョーの二人をのぞけば、ゲートボール帰りの老人が静かに談笑しているしているくらいだった。
「Dr.がそう言ったのか? 菅野博士が?」
ジョーは三人分じゃないのだろうかと心配になるくらい巨大なパフェをほおばりながらそう尋ねた。菅野博士、とは先日のアウターホリッカー、『Dr.』の現実での姿らしい。本人が言ったとおり、ミコトセキュリティサービス社に勤める人型汎用ロボット用のA.I.研究の第一人者で、戦中は認知心理学を応用したオペレーションシステムを発明して名声を得た人物なのだという。ジョーの受け売りだが。
黒瀬は力なく頷く。注文したココアを前にして、一口も口にしていない。
Dr.の件から二週間以上経っていた。あの一件以来、黒瀬の頭の中はいろいろな疑念がまざりあい、ふくらみ上がって、一杯になっていた。Dr.の口にした祖父の過去、そしてアウターワールドの真実の一部。それはいくら黒瀬一人が頭をひねった所で、真実への糸口すらつかめない程、巨大で濃密な疑惑の塊だった。結局、祖父の疑問点は核心的な所は何も解決していない。なぜ祖父はイジェクターなどという役回りを演じていたのか、なぜ祖父は死の直前までアウターワールドへログインしていたのか、そして、本当に殺人の構造(アウターホリツク)を組み込んだのは祖父なのか――――とても一人で抱え込める量ではなかった。溺れる者は藁をも掴む。結局、黒瀬に残された頼る当てと言えば、名刺を残したジョーぐらいしかおらず、せめてもの相談相手として彼の名刺へ連絡を取ったのだ。あまりに馬鹿げた、愚かな行いだと思うが、とにかく辛くて、限界だったのだ。
「興味深い話だなぁ。まるでレトロムービーだ。趣味でよく見てるんだがね、君、赤い洗面器って話知ってるかい?」
しかしこの男、全く役に立ちそうもない。ここへ来てからというもの、山盛りのパフェをもぐもぐと食べるばかりで、建設的な意見はまるで出さない。相談相手を間違えたとも思うが、他に頼る当てもなかったのも事実だ。
黒瀬が黙っていると、ジョーはチェリーの枝で黒瀬を指しながら言った。
「……随分神経をやられているようだね。イジェクター」
ジョーは枝を灰皿にぽんと放りながら、言った。
「僕は何度かタレコミに応じた事があるんだ。内部告発って奴さ。そういう人たちって、皆君みたいに凄く緊張した表情をしてるんだ。何かに怯えたり、怒ったり、あるいは――恐れていたり」
彼は記憶を反芻するように視線を明後日へ向ける。
「だけど全てを話すと、皆気が楽になるんだろうね。すっきりした顔で帰って行くんだよ、胸につかえてたのが取れたって感じでね。それで、君の話なんだけど」
彼はのぞき込むようにわずかに首をかしげて
「君はそうじゃないようだ」
一瞬、胸元から懐へ刃物を差し込まれたような気がした。ジョーの顔を見る。彼は笑顔と真顔の中間のような奇妙な表情をしていた。きっと、人を疑っている時の彼の目は、そういう表情なのだろう。まだ全てを話しているわけではないと感づいたのだ。そう、全てを話したわけではない。意図的に言っていない――――いや、言えなかった話がある。
彼女の事だ。
わざわざ敵から送られた塩(sleeping beauty)まで使って、頼りたくもない人づてまで頼って、ここにいるというのに、結局黒瀬はコーディについて話す事ができないでいた。こうして彼女に隠れてこそこそと立ち回り、人に会っているという事自体、酷い罪悪感があった。
「……しかしうらやましいな黒瀬君。えぇ? あのsprigとお近づきになれたなんて……ファンが知ったら君を全力で殺しにかかるよ、いや、全く。かくいう僕もファンなんだがね」
黙り込んだ黒瀬を見つめていたジョーは、そう言いながら、また新たにブラックサンデーのパフェをテーブルに埋め込まれたパネルを操作して注文する。
いざ彼にコーディの話をしたとして、身のある答えが返ってくるとは思えない。所詮ジョーは記者であり、飯の種になりそうなネタを拾えればそれでいいだけなはずだ。そんなことはわかっていた。だが、もはや全部はき出してしまいたいという欲求のほうが強かった。天井知らずに高まる彼女への疑念とその罪悪感は、拮抗しあっていて、ぎりぎり罪悪感が勝っているだけに過ぎない。ほんの少しでも揺れ動いたら、疑念の方が勝ってしまうかも知れない。
「――――ようし、あったぞ」
ふと、ジョーがそうつぶやいた。彼は慌ててスプーンをグラスに放り込むと、宙に指を這わせた。ユビキタス機能が起動し、彼の眼前にタスクウィンドウが現れる。
「密告網(リークスネツト)っていってね、世界中のジャーナリストの脳の一部をリンクして、お互いの情報を共有し合うってコネクトサービスがあるんだ。やばそうな情報を鍵付きで共有して自分が死んだら公表したりね。そこでいくつか情報を検索したんだ。もちろん情報は著作権(タグ)付だから使用は限られるけど――――あぁ、これだ」
彼はタスクの一つを黒瀬の方へ差しだした。見ると、そこには国際共通語で書かれた報告書のような文書がずらずらと並んでいる。
「フォース22に関する公式文書だ。戦後20年経ってから一般に公開されてたってある。レポートにまとめてくれたジャーナリストがいたらしい……あぁ、この部分だな」
ジョーはタスクウィンドウの中程を指さす。彼は国際共通語を完全に読めるようだ。
「ここに確かに書いてあるな。『このフォース22は仮想現実を支えるシステムに長年疑念がつきまとった。このシステムを支えるサーバーは当時の、そして現代の技術でもってしても製造は不可能なRed brick wallであり、研究はその問題を解消できずに中止された』」
「レッドブリックウォール……?」
「実現不可能な壁(red brick wall)……要するに技術的に製造不可能だったはずって事だよ。現代の技術をいくら応用しても、現実そのままの仮想現実を支えられるような情報処理機械(コンピユータ)が……つまりサーバーが存在しないって話だ。それで計画は頓挫した」
黒瀬は眉根を寄せた。おかしい。Dr.の話と矛盾している。
「確か、Dr.も研究は頓挫したって言ってた。だけどそれは事故のせいだって――」
ジョーは文書に熱心に目を通しながら
「……あぁ、文書の内容とDr.の話は矛盾してる。彼が嘘をついていなければ、システムのサーバー問題は当時既に解消されていたんだ。それも、彼の言葉を借りるなら……法外(イリーガル)な方法を用いてね」
「アウターワールドはフォース22を元にして作られてるって言ってた。今でもその法外(イリーガル)な方法ってのを元に運営してるとしたら……」
ジョーは口角を持ち上げた。タスクウィンドウを掲げて仰ぎ見ながら、「スクープだ」と嬉しそうにつぶやく。黒瀬は勢い込んで、
「まだある。Dr.は事故が原因で悪魔が生まれたって――――それが俺の爺ちゃんだって」
「それだ」と、ジョーはパフェから引き抜いたスティックチョコレートで黒瀬を指した。
「人間一人が犠牲になって、国家予算がつぎ込まれた研究がまるまる一つ中止せざるを得ないような事故。それにより悪魔が生まれた――こいつは一体、何なのか…………食うかい?」
スティックチョコレートを黒瀬に差し出す。首を振って返すと、彼はそれを咥えてうなった。
「難しいな。……もう知ってる事はなにもないんだろ?」
黒瀬は黙り込んだ。……じゃあ、あとは独自で調べるしかないな。ジョーはそう言って席を立った。「パフェが来たら、食べて良いから」伝票を手に彼は背を向ける。黒瀬は視線を落とした。言うべきかも知れない。彼女の事を。祖父の過去と、アウターワールドの危険な秘密を探る手助けになるかも知れない。そう思うと同時に、罪悪感が黒瀬の胸の内にじわりと広がる。きっと彼女の事を話してしまえば、自分は楽になれる。彼女への想いを、一人で抱え込まなくて済むから。彼女への疑念を、誰かに預けてしまえるから。だが、それは……
「――――一つ、ある」
背を向けて歩き出したその彼に、黒瀬は微かな声で言ってしまった。ジョーはゆっくりとふりかえり、「え?」と尋ねた。黒瀬は顔を上げた。全身を覆っていたしがらみから解き放たれたような気がした。罪悪感が、黒い塊になって全身を飲み込んでいく。
「アマタ……っていうらしいんだ。あいつの名前」
ちょうど、ジョーが注文したパフェがテーブルに届けられた。両手で、甘ったるいそれをたぐり寄せる。固形チョコレートを花のようにあしらったそれは、アップロールの髪をした、仏頂面の彼女にどこか似ているような気がした。
■
黒瀬が屋敷に帰ると、ダイニングルームのソファでコーディは静かに寝息を立てていた。屋敷のほとんどは和式で統一されているが、ダイニングの一室だけはフローリングの洋室だった。黒瀬はソファにほとんど座った事がなかった(家族揃ってダイニングで食事というのはこの屋敷ではあり得ない話だ)ので座り心地はわからなかったが、触った限りでは柔らかく、少し眠るには悪くない場所だった。コーディは所詮データなのでソファの柔らかさなど気にかける必要はないのだろうが。
彼女の小さな唇が少し開き、静かに呼吸をしている。薄い胸が、微かに、微かに上下していた。黒瀬はダイニングテーブルにセットされていた椅子を手にすると、ソファで眠る彼女の前にそれを置き、腰を下ろした。
黒瀬の脳に常駐している彼女に知られることなく、ジョーに会うには、彼女に何らかの方法で意識を失ってもらうしかない。Dr.の用意したスリーププログラムはそれを見越して用意されたものだった。後ろめたさに胸を突かれながら、結局Dr.のプログラムを彼女に適用した。本当に眠る(スリープ)とは思わなかったが。
こうして見つめると、コーディの肌は驚く程滑らかだった。作り物のように冷たい印象ではなくて、ちゃんと生きている温もりと柔らかさが見て取れて、それでいて、まるで人工物のように精巧だった。初めて彼女に対面した時、生気が感じられない、シリコンで出来た人形細工みたいに美しいと思ったが、今となっては、美しいと言うよりはかわいらしいと思うようになった。こうして無防備に眠ったり、小さな笑みを漏らすと、彼女の能面のような表情に途端に命が宿る。それはきっと、半分死んだように生きてきた自分より、ずっと生気に満ちていて、人間としての魅力に溢れている。それがうらやましくもあり、うれしくもあった。不思議な感覚だ。他人であるはずの彼女が、自分の一部になったような。黒瀬はその薄く桜色に染まった頬に手を伸ばす。
黒瀬の手は、彼女の頬をすり抜けた。
当たり前の事だとわかっていたのに、酷く傷ついた気がした。何をバカな事を思い直そうにも、落胆する気持ちは際限なく落ちていく。触れられると思ったのか? そんな事、出来るはずがない。する必要もない。彼女は模造品。人間じゃないのだ。
「…………」
思えば、自分と彼女の関係は、いつも一方通行だ。
彼女はイジェクターのなんたるかを知っている。自分は知らない。彼女は黒瀬の全てを知っている。自分は何も知らない。彼女は黒瀬に触れられる。自分は彼女に触れられない。
彼女には秘密がある。
自分はその一つだけを、知っている。
アマタ。それが彼女の、本当の名前だ。
「再起動(リブート)」
黒瀬の前に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。それを掴むと彼女の姿に重ねるようにして置く。ウィンドウはブラックアウトし、そこに凄まじい速さで白い文字列が現れる。プログラムが彼女に適用されているのだ。黒瀬は席を立ち、彼女に背を向けた。
「……ぅぁ」
長い時間を経て、重たい瞼をゆっくりともたげたコーディは、小さく呻きながら、ソファから体を起こした。ストレートの艶やかな髪が、乱れて床に垂れる。彼女はそれに指を這わせて、不思議そうに見つめた。フリルのついたワンピースパジャマ姿の自分を見わたす。少しずつ、覚醒し始めた目の瞳孔が開き、次第に、鈍い黄金色になっていく。何かに気づいたように、大きく目を見開いていく。
「起きたか。機械のくせに、寝るなよ」
黒瀬は平静を装ってそう言った。コーディははっとして黒瀬に眼を向けた。何か言いたげに唇をわずかに振るわせていたが、すぐにきゅっと結んだ。黒瀬は彼女に眼を向けず、パーカーのフードをかぶって言った。
「ランニング行ってくる」
そのまま、振り返らずに玄関に向かった。一時間も走って戻ってくれば、彼女が眠っていたという事実は、うやむやになってしまうだろうと思った。それは希望的予測――というよりは、むしろ希望そのものだった。
彼女が立ちふさがったのは、玄関の扉に手をかけた時だった。
「私って、気持ち悪いですよね」
突然、空中から降りたって、玄関と黒瀬が伸ばした腕の間に現れた彼女は、じっとうつむいたままそう言った。心臓が高鳴った。盗みをとがめられたような、そんな焦りが胸にじわっと広がった。
「私、模造品(プログラム)なのに、まるで人間みたいに振る舞って。人間みたいに話して。人間みたいに考えたり……こんなの、おかしい。気持ち悪い」
喉から剃刀をはき出すみたいな声だった。
「まるで、私、セルロースの人形」
彼女と出会ってから、一度も見た事ないくらい、感情的になっている。自分を傷つけるような事を口にするなんて、それこそまるで人間の女の子のようで、黒瀬は言葉に詰まった。それでも感情に急かされて、言葉がこし出される。取り繕うように、
「何言って……そんな風に思った事ない」
「じゃあどうして私を調べたんです」
ぱっと彼女は顔を上げた。その目は真っ赤に染まっていた。脈打つように、炎のように、瞳が紅色に煌めく。灰をかぶった炎のようだった。そのくせ、瞳以外は今にも泣き出そうに歪んでいるのだ。
「……私、あなたの頭の中にいます。あなたと私は表裏一体。同じ人間なのに。それなのに……それなのに、どうして疑うんですか」
いつもの平坦な声色じゃなかった。声には押さえきれない熱がこもっていた。唇が震えているのが見えるくらい、彼女は顔を寄せていた。きっと、普通の女の子なら、しゃくり上げてるんだろうなと思った。何か、優しい言葉を口にするべきだ。そうして彼女を安心させなくちゃいけない。
「それは、違うだろ」
分かっているのに、飛び出したのは、まるで叩きつけたみたいな言葉だった。
「お前は俺を全部知ってる。けど、俺はお前を何も知らないだろ」
彼女の瞳が一際強く震えて、目が見開いた。ひっぱたかれたみたいだった。あふれ出した言葉は止まらない。
「お前、何を隠してんだよ」
彼女の肩を掴むように、黒瀬の手は動いた。コーディの体が、ぴくりと跳ねた。
「言えよ、本当の事を。お前、本当は――――」
けたたましい警報が鳴り響いた。
滑り込むように、黒瀬とコーディの間に、真っ赤なウィンドウが現れた。
「……アウターホリッカーです」
そう言ったコーディの声は、酷く固かった。さっきまでの熱がこもった声ではなくて、どこか弱々しくて、頑なな、閉ざされた声色に変わっていた。ウィンドウを手に取る。
彼女に何事か言いつのろうと思った。今語りかけないと、今あきらめてしまったら、彼女は二度と耳を傾けてくれなくなるんじゃないか。焦りと言うより、恐れだった。彼女が消えてく無くなってしまうような恐れが、黒瀬をかりたたせる。
「コーディ、何で隠すんだよ! 何を隠してるんだ!」
ウィンドウを消した彼女は、ふっと体を浮かべて、その体に真っ黒なトレンチコーを羽織った。いつもの、あの死神のような姿となり、初めて出会った時のように、髑髏を仮面のように顔にかざした。表情が見えなくなる。
すっと指を伸ばした。
「インサート」
抵抗しようとしたが、無駄だった。意識が吹き飛び、世界は暗転する。
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