Eje(c)t

 包丁なんて握るのは久しぶりだった。
 コーディが言うには、黒瀬の左腕が動かないのは、幼少時に導入したPlay fun!12が引き起こしているバグが脳の随意神経を司る部位を麻痺させているのが原因で、それは決して不治の症状ではないらしい。特殊な形ではあるが、リハビリをすれば、自発的に動かす事は可能だという。
「私が補助しますから」
 と、彼女は黒瀬の背後で抱きすくめるみたいに立って言う。グレーのギンガムチェック柄で小さなフリルのついたエプロンをして、髪をポニーテールに結い上げている。その左腕は、黒瀬の左腕と重なっていて、どうやら彼女の腕の動きに合わせて、黒瀬の腕が動いているようだった。彼女は黒瀬の肩口からひょいと顔をのぞかせながら、
「簡単な運動からしてみましょう。いくつか検討してみた所、料理が一番手軽で比較的効果の高いリハビリです。あなたの左腕は私の左腕の動きを追従(マスタースレイブ)しながら刺激を受ける事で、随意神経の麻痺を回復させるのです」
「おい待て、待てよ、おい」
 彼女は黒瀬の左腕で包丁を握っている。右手でタマネギをまな板に押しつけている黒瀬は、振りかざされたその刃先を食い入るように見つめながら言った。包丁は振り下ろされる前に動きを止める――――が、刃先は常に小刻みに震え続けている。ふらふらと彷徨い、定まらない。入り口のない家に入ろうとおろおろしている人みたいだ。
「お前、本当に料理できるのか」
 タマネギの上に右手を置いている黒瀬はたまった物ではない。親指にでもたたき落とされたら右手も使い物にならなくなってしまう。非難の目を向けると、すぐ耳元でじっとタマネギを見つめ続けていたコーディははっと黒瀬の方を見て、「……可能です」と短く答えた。目の色がかしゃかしゃと色を変え、ちろちろと煌めく赤色に変わった。燃えている。小学生が初めて包丁を握った時と同じ目をしている。これはやばい。
「料理の基本とか知ってるんだろうな。調味料入れる順番とか……」
 もちろん。コーディは鼻を鳴らして言った。
「料理のあいうえおですね」
「さしすせそだよ」
 二人の間に沈黙が降り立った。彼らは無言だったが、一本の刃物を挟んで、互いに激しい駆け引きをしていた。黒瀬はじっとコーディの横顔を疑わしげに見つめ、彼女は包丁の刃先を睨付けたまま黒瀬を無視した。
「いきます」
「ちょ」
 ずだん
 黒瀬の眼前で、タマネギは真っ二つに切断されていた。真ん中から、ごろりと二つに裂けたタマネギが死体のように転がる。タマネギを押さえつけた黒瀬の丸めた指の端から、わずかに血が滲んでいた。
「やめよう」
 黒瀬は恐ろしくなってまな板から離れようとした。が、コーディの体がするりと黒瀬の右半身にも回り込み、ぐい、と抗いがたい力でもとの姿勢に戻した。
「簡単にあきらめるべきじゃありません。リハビリとはそういうものです」
「放せよ! お前、本当は料理できないだろ!」
「できます」
 平坦だった彼女の声に、わずかに抑揚がついた。むきになっている。
「長い間麻痺していましたから、クロセさんの左腕はまだ感覚がなまっているんです。そのせいなんです今のは。次は大丈夫です」
「そういう問題じゃないだろ、絶対。お前、包丁を叩きつける奴があるかよ、やった事ないんだろ、出来ない事を俺を巻き込んでするなよ!」
「いきます」
「ちょ」
 ずだん
「痛っ!?」
「……最初はうまくいかないものなんです。でも徐々に慣れていきますから」
「バカ、もうやめろって!」
「いきます」
 ずだん



 居間でふて腐れながら黒瀬はカレーをすくった。盛大なため息を吐く。
「どうですか」
 卓を挟んだ真ん前に座ったコーディは平坦な声でそう言った。正座する彼女は、相変わらずエプロン姿で、目つきだけは真剣だった。黒瀬は黙ってスプーンを掴んだ右手を見せる。先ほど四苦八苦しながら巻いたエイドシール(絆創膏)が群れなして手を覆っていた。コーディは前のめりになっていた姿勢を少し落とし、味の話なんですが、と小さく言った。
「辛いよ」
 苛立ち収まらぬ調子でにべもなく言う。
「カレーなんだから」
 だいたい、カレーなんて、誰が作っても同じ味に決まっている。コーディは短く「そうですか」とつぶやいた。かちゃかちゃと黒瀬がスプーンと皿を当てて奏でる音を見つめる。その視線に気づくと、黒瀬はなんだかいたたまれない気分になった。よく考えると、誰かと食事を取るなんて何年ぶりだろう。祖父とは居を同じにするだけで、一緒に何かをするという事はなかった。思い返してみれば、誰かと一緒にキッチンに立つなんて、幼い頃に母親と料理をした以来かもしれない。微かな記憶。
 コーディがふと手を伸ばした。何をされるのかと(右手を血だらけにされた前科があるのだから当然だ)思ったが、彼女はただ黒瀬の左手に触れただけだった。どうせ抵抗しても、彼女の一存で体が石みたいに動かなくなるのはわかっていたので、好きなようにさせていた。
「どうですか。何か、変わりませんか」
 指や手のひらの感触を確かめるように、彼女は手のひらを撫ぜる。
「変わるって……何が」
「少し、動いたり」
 黒瀬は首を振る。
 「そうですか」と、彼女は平坦に言って、また少し肩を落とした。残念がってくれているのだろうか。いくらなんでも気が早いと思う。彼女が言うリハビリの効果の程が現れるとしても、何ヶ月も練習してからだろう――――もっとも、こんな事を毎日繰り返すなどごめんだが。
 「もし、この腕が治らなかったら」彼女は顔を上げた。「どうするつもりですか」
「換装(切断)する」
 と、思う。黒瀬はそう言った。感覚があっても、足と同じで無用の長物なのは変わりない。感覚だけある動きもしない腕をぶら下げておくくらいなら、最新式の義手でもつけた方が良い――――昔は腕にメスを入れるのが怖かったが、足を切断した今、恐怖は薄れて、そう思い始めていた。
 「そう」と言うと思ったが、彼女は何も言わなかった。視線を落としてじっと手を見つめる。不思議な表情をしていた。なんとも歯がゆそうに口元を歪め、思い詰めたような瞳を震わせている。
 その表情を見ていると、先ほど感じた既視感(デジヤヴユ)を思い出す。彼女の腕が、自分の中に滑り込んでくる感覚。彼女と一つになる感覚。腕に宿った温もりに、なぜか懐かしさを覚える。不思議と嫌悪感も、違和感もなかった。これまでの自分を鑑みれば、そういう事には敏感に拒否感を抱きそうだと思うのだが。
 すっと手を離した彼女は、「残ってますよ」とカレーに目を向けて言った。思い出したように、黒瀬はスプーンを動かし始めた。食べながら、「もしかして『ごちそうさま』を言うべきなのだろうか?」と思いつく。しかしなんだか小っ恥ずかしい。それに料理を主導的にやったのは自分の方で、むしろコーディは右手をずたずたにしただけだ。言う必要なんてないだろうと結論づけたが、結局食べ終わってコーディと目があった時、自然と「ごちそうさま」が口をついて出た。照明の光を反射する彼女の濡れた瞳に、幼い頃、母が向けてくれていた瞳を見たような気がしたのだ。自分でもほとんど、無意識だったが。
 彼女は不意を突かれたようで目をまん丸にしていたが、すぐに視線をどこかよくわからない方へ落として、「はい」とだけ答えた。
 それじゃ、と皿を台所に持って行こうとこの場を去りかけた黒瀬の手を、いきなりコーディが引っ張った。たたらを踏んで振り返ると、彼女は真剣な表情で黒瀬を上から下までじろじろ見つめた。なんだ? 自分が何か変な格好をしているのかと不安になって、黒瀬は思わず自分の服装を見渡す。いつものトレーニングパンツに、フードパーカーだ。何も問題はない。
「ダサいですね」
 首をひねっていた黒瀬に、彼女はぴしゃりと言い放った。
「は?」
 彼女はきっと黒瀬を見上げると、言った。
「ダサい」



「コーディネートです」
 彼女はおそらくノリノリだったと思う。
 既にその始まりの宣言からしてそうだったが、無表情に押し隠したユーモアが一気に吹き出したみたいに、彼女は黒瀬をオモチャみたいに右往左往させた。
「外を歩き回るならまず服装ですが、現在のファッションはセルコミューン状に好みが分かれ、何がより高位で何が下位で何が一般的なのもかも判別が難しい状態です。そこで、そうして分極化する前の段階のファッション傾向をベースに、モダンアレンジを加える事でクロセさんに適したファッションを見つけましょう」
 突然と真っ白な空白の空間に『インサート』された黒瀬を、ずらりと螺旋状にパイプが取り囲み、そこに無数の服が押し合いへし合いしながら雪崩こんで来た。すっかり異世界に迷い込んだみたいに辺りを見渡す黒瀬が動揺して
「な、なにするつもりだよ」
「例えばこれ」
 いつの間にやら、奇抜なドレスを身にまとったコーディが現れ、人差し指を動かして、服の群れから一着飛び出させた。黒瀬に試着するみたいに重なる。うわっと悲鳴を上げて避けようとするが、体の全面にぴったりとはりついて離れない。
「1950年代から流行ったモッズファッションの潮流をくんだ形です。40年前の東アジア戦争時に使われたミリタリーパーカーを使って再現しています。基調は暗い色なので明るいアクセントをつけると良いでしょう」
 黒瀬を中心にして丸く円陣を組んだ色とりどりのネクタイやスカーフが、次々と順番に黒瀬の胸元を飾る。気にくわないのかコーディが無表情にため息を漏らして首を傾げると、その度に凄い速さで円陣が回転し、彼女の好みを検索するみたいに時々ぴたっと止まった。
「ふぅーん……やっぱりちょっとこっちに変えましょう」
「な、なぁ、おい」
「あぁ、これは悪くないですね。でももう少し軽い感じだと親しみやすいですし」
「こんな格好、これ……派手だよ、これ」
「表情も性格も暗いですし、雰囲気がどうしても重めなんですから、これくらい問題じゃありません。さて、これに合うアンダーと靴を探さないと。あ、動かないでくださいイメージが崩れます」
「暗いって……」
「これも悪くないんですが……そうですね、あまり汎用性がないのはよくありませんね。デートに行くとしたらどんなシチュエーションにも映えるようでないと」
「デート!? スプリ――日和の話か!? なんだよそれ、俺は行かないって!」
「いいえ、行ってもらいます」
 彼女はぴしゃりと言って、黒瀬がそれに猛然と反論しようとすると、
「今のあなたはルサンチマンです。springは酸っぱいブドウ」
「ルサ……何? ブドウ?」
「あなたは高い所に生えているブドウが食べられなくて悔し紛れに『どうせあんなの酸っぱいに決まってる』って言っていじけてるみっともないキツネです。私はそのキツネの頭にいるんです。あなたはそれでいいでしょうが、みっともないのは私が困るんです」
 唖然とする黒瀬を置いてけぼりにして、コーディはさらに次のジャケットを滑り込ませてくる。髪の色や目の色を変えたり遣りたい放題だ。



 翌日から次々と玄関に商品が積み重ねっていった。受け取りのサインだけで良いようなのでとりあえず受け取って中身をのぞくと、昨日さんざんぱら黒瀬をオモチャにしてようやく合点いったらしい服の数々が入っていた。一般家屋と比べたらはるかに広い玄関が、積み重なった衣服でいっぱいになってしまった。
「……なぁ、お前が言った外の世界の生き方って、服を着る事なのか?」
「少なくとも、フードパーカーにトレーニングパンツだけで外は歩けません。これは計画のほんの一端です」
 コーディはぴしゃりと言うと、手をぱんぱん鳴らして
「さぁ、開封したら居間に並べて、実際に着てみてください」
 また試着するのか? 黒瀬は目を剥いたが、彼女はかまうことなくさっさと居間に向かってしまった。彼は頭をかいて、積み重なった衣服の入った箱群れを見上げる。彼女に手綱を握られてる気分はウンザリする。だが反論する余地もない。そもそも舌戦は苦手なのだ。いっそどうにでもなれと、投げやりな気分だった。
 箱をいっぱいに抱えて何度も居間と玄関を往復してから、箱の中身を畳の上に並べた。殺風景だった部屋が、モノクロからカラーになったみたいにカラフルな衣服達に彩られる。コーディはその群れを歩き回りながら、ふむふむとなにやら考えている様子だ。黒瀬はスウィートスモークを咥えて、柱の一つにもたれ掛かると、その様子を眺めた。
 部屋の向こうには仏間が見える。光の当たらないあの部屋に比べると、衣服だらけのこの部屋は随分けばけばしい。こんなのは黒瀬の趣味じゃない。異質な物が部屋の中に入っている気分は、誰かに自室の中をのぞかれているような嫌悪感があった。だが、代わりにコーディが、楽しそうにしている。表情は動かないが、彼女の瞳が、くるくるとめまぐるしく、パステルカラーに色を変えていた。嫌悪感に埋もれていた忘れかけていた感覚が、どうにかこうにか頭をもたげてくる。
「(今、俺は誰かと一緒に住んでるんだな……)」
 部屋を誰かに明け渡す日が来るなんて、祖父が死んで以来思いもしなかった。この広い屋敷は全部祖父と自分の物で、自分の唯一の世界で、だからこそ安寧とした、誰にも邪魔されない世界だった。一人になると途端に持てあましたこの広い屋敷の一つが、今彼女の手に渡っている。それで彼女が幸福そうなら、まぁ、それでいいかな、と煙をはき出した。



 そうして彼女がはりきって過ごした一週間は黒瀬にとってあっという間に過ぎていった。毎日、ただ単調にランニングや通信教育、それに食事といったルーチンをこなしていただけの黒瀬には、日々新しい事に挑戦するのは精神的に酷く疲れた(とりわけ料理は実際に怪我もするので一番気が重かった)。この先の未来の事や、過去の出来事、それに屋敷にこもって犠牲にしてきたこれまでの時間ばかりを想ってもんもんとしていた夜も、今では疲れであっという間に眠ってしまう。外の世界って、こんなにも一生懸命にならないと生きていけないのか? ――――とてもやっていけそうにないと、黒瀬は辟易していた。
 そんなある夜、珍しく目がさえていた黒瀬は、ホットココアでも飲んで落ち着こうと階下に向かった。昼間、とんでもない目にあって神経が高ぶっていたのだ。コーディが呼んだヘアアーティストだかなんだか知らないが、ゲイ臭い上に常に興奮気味の男が、黒瀬の髪を散々いじくった挙げ句、彼の精神をひっかきましていったのだ。曰く「汚い髪で芸術的じゃない」だの、「太陽を浴びてないからゾンビみたいな顔色だ」だの……そうまで言ってできあがった髪型を見たら、ただのさっぱりしたショートヘアーだったので黒瀬は怒り狂いそうになったが、仕事を終えると男はさっさと引き上げていった。きっと、客を怒らせるのには慣れているのだろう。アーティストと言うのは難儀で迷惑な奴らばかりだ。コーディが何か言っていたが返事もせずにふて寝して、今に至る。
 階段を下りていると、リビングに明かりが灯っているのが見えた。消し忘れたかと思って目を凝らすと、人影が見えた。コーディが、椅子に座って、首をひねりながらウィンドウを操作するような仕草をしていたのだ。何か作業をしているらしい。
 また見つかったら姿勢を正せだの、はっきりと喋れだのうるさいに違いない。最近はまるで口うるさい教育係だ。黒瀬はこっそりキッチンに行き、手短にココアを作ってさっさとひきあげようとした。
 だが、途中でふっと思案顔になると、難しそうな顔でしばらく悩んでから、リビングを振り返った。そこにいる彼女は、疲れを知らぬ英雄(へーロース)というわけでもないらしく、濁った目をしぱしぱさせている。
 テーブルの上に黙ってココアを置いた黒瀬を、コーディぱっと見上げて、小さな唇を半開きにしてから、きゅっと結んだ。濁っていた瞳が、透明感のあるエメラルド色に塗り変わる。
「飲めませんよ。私、現実の事象には関われないんです」
 黒瀬は今更思い出して、気まずそうに口元を蠢かせてから、「俺のだよ」とぶっきらぼうに言って手元にたぐり寄せた。ふーふーと冷まして、「何やってる?」と誤魔化すように尋ねた。
「デートプランを。彼女が全部決めてくるでしょうけれど、きっとあなたの障害については考慮していないでしょうから。あまり遠くなくて、落ち着いた場所を探してるんです」
 ココアに口をつけていた黒瀬は、驚いたように彼女を見た。それから何か言おうとして口を開き、結局何も言わずにカップを置いた。多分に迷惑な面はあるが、彼女はどうやら、彼女なりのやり方で自分の事を考えてくれているんじゃないかと思った。誰かにそんな事をされた経験がないので、本当にそうなのかは、わからないが。でも実際、遠い場所は黒瀬の足ではやはり辛いし、明るく華やかな場所は針の筵にいるみたいに落ち着かない。彼女はそれを、知っている。
「(……なんでここまでしてくれるのだろう)」
 疑問が頭をもたげたが、そんなことを直接聞く程、黒瀬も馬鹿じゃない。タマネギの皮を剥いて中身を見つけようとするようなものだ。答えがない問いは、つまらない事実だけしか残さない。うわべだけの答えなんて、虚しくなるだけだ。
「……なぁ、俺がお前にしてやれる事ってないか」
 気づくとそう口走っていた。言ってから、自分が随分馬鹿らしい事を口走ったと思い気恥ずかしくなった。彼女はOS、機械なんだぞ? 車の音声案内を口説くようなものだ。馬鹿馬鹿しい。また無表情に一蹴されるんじゃないかと、伺うように彼女の顔を見上げた。
 コーディはじっとこちらを見つめていた。
 何を考えているのだろうか、彼女はなぜか何も口にせず黙って黒瀬を見つめ続け、黒瀬も彼女から目が離せなくなった。しばらくして、誤魔化すように黒瀬はココアに口をつけ、明後日の方向を見た。
「……そうですね」
 コーディもまた、手元の作業に視線を戻し、
「強いて言うなら、デート」
 何か言いよどむみたいに、彼女の言葉が途切れ、黒瀬はふと顔を上げた。
「――――行ってきてください。必ず。私の計画を無駄にしないよう」
 いぶかしげな顔をしていた彼が、それは、と言いよどむと
「絶対ですよ。それが一番、いいですから」
 返事をせずに、黒瀬はカップをテーブルに置いた。波紋が広がって、それから、自分の顔が写った。毎晩顔を洗う時に洗面台の鏡で見る表情とは違う。緊張感が薄れた、気の抜けた表情をしていた。自分をいつも包み込んでいた、慢性的な不安感のようなものが、抜け落ちているのに気づく。泣き出したくなるような、いたたまれないような、自分がこの世界に存在してはいけないような、そんな恐れが、今日この瞬間だけは、朝を迎えた霞のように消え去っていた。
「(……ココアのおかげか)」
 別に他に心当たりなどないのだから、そうに違いない。むっと口をへの字にすると、またもう一口、カップをあおった。



 20年ほど前から、地下街の建設はブームになっていた。40年前の極東戦争以来、都市開発は常にミサイル攻撃を想定していて、シェルターとして兼用できる地下街の建設は政府から推奨されていた。ブームを経た今では、地下街は今や地下にあるもう一つの王国だ。居住区もあるし、学校を始めとした公共施設も揃い、場所によっては観光地だってある。地上の文化に縛られない自由な文化発展を遂げていて、地上ではアングラ扱いの文化が地下ではメインカルチャーとなっているのも珍しくない。
「……帰りたくなってきた」
 指定第九地区の地下街は他の地区の地下街に比べて電子的な発展が進んでいる。天井を覆う透過スクリーンは地上と全く遜色ない青空を映し出し、軒を連ねる店舗は全面フィルター張りでそれぞれの店舗の映像宣伝を常に流している。呼び込みの店員はホログラムだ。ディスプレイやフィルターは艶があるので、それが地上と地下を区別する一つの区切りになる。地下街全体が艶やかに滑らかな光をたたえているのだ。地上と違い、どこか精巧な作り物めいている。
 黒瀬は辺りをきょろきょろしながら有名メーカーの並ぶアウトレットモールの通りを歩いていた。時刻は朝十時。照明は居住区以外は常に一定で、乳白色の柔らかい光が、雑踏とそれに紛れる黒瀬を照らしている。
『何言ってるんです? あと十五分ですよ、急いでください』
 彼の傍らで宙に浮いたコーディが急かす。彼女はシックな黒のショートドレスにアップロールの髪をしていて、なぜか彼女の格好の方が気合いが入っている。黒瀬の方は流行だというスーツを着崩したようなジャケットにミリタリーパンツである。先ほどショーウィンドウに反射した自分の姿を見たかぎりこの上なく違和感を感じたが「そういうものです」とコーディに強く押されて閉口したばかりだ。
 十分もすると、黒瀬はガラスディスプレイのヒダがドレスみたいに折り重なったオブジェが中央にある、噴水広場に出た。コーディが言うには、待ち合せ場所はここだ。他にも待ち合せしている人がたくさんいて、そのほとんどがカップルだった。意味もなく赤面しそうになって、黒瀬は顔を片手で覆った。
『少し遅れるそうです』
 柱にもたれかかった黒瀬は、それを聞いて少しほっとした。コーディのおかげで確かに少しは外への拒否反応は薄れた。それでもこの辺りの地下街の華やかな雰囲気には慣れない。ここに今日和が来たら、声がひっくり返るに違いない。早鐘を打つ心臓に拳を押しつけて、なんとか落ち着こうとする。
 そうして十分も経った頃だろうか。不意にコーディが傍らに現れ、黒瀬の隣で壁にもたれ掛かった。
「……なんで実体化してるんだ?」
 最近気がついたのだが、彼女はユビキタス機能を有している人間になら見る事も、触れる事も出来るように体のモードを切り替えれるらしい。普段は薄いブルーの半透明で見えているが、この状態になるとはっきりと見えるようになる。手を伸ばせば触れられるし、他の人間にも見えているはずだ。黒瀬はこれを勝手に実体化と呼んでいた。
「お暇なようでしたから」
 コーディは答えになっていないような事を言う。思うに、この状態で日和が来たらまずい事になるような気もする。だからといって、さっさと消えろと言う気にもなれない。二人は黙りこくって、刻々と色を変えるのを噴水のオブジェに照らされていた。他のカップルが次々と再会を果たす中、二人はほんの一歩足を踏み出せば肩が触れるくらいの距離を保って、まるで他人のように、視線が交錯しないよう、明後日の方向を見つめていた。
「……あ」
 彼女が不意に顔を上げた。辺りの照明がふっと落ちて、突然黒瀬とコーディ以外の人の姿が見えなくなった。真っ暗闇の中で、二人は取り残される。ふと、暗闇でぱっと真っ白な光がはじけた。光の粒子が小さな羽の生えた人間……妖精の姿に変わって、辺りに煌めく色とりどりの光を振りまく。地面に落ちたそれは種となって芽生え、一面を美しい花園に変えた。
 光の芸術だ。地下街の落書きとも言える。時々こうやって、誰とも知れないアーティストが液晶パネルをハックして演出するのだ。商店街のガレージにスプレーで落書きするようなものだが、地下街の人々はむしろこの『電子の落書き』を歓迎していて、偶然花火に居合わせたみたいに喜ぶ。辺りから歓声が聞こえた。その時、不意に誰かに手を捕まれた。
 電撃が走ったみたいだった。
 暗闇に遮られた五感が、指先の触覚を鋭敏にしていたのかも知れない。張り詰めた弦が微かな振動に共振するように、指先から走った感覚が、埋没した記憶にさざ波を立てた。その手の感触は、記憶の中に転がっていた――――ずっと小さな頃、不安に怯えていた時はいつも、この手の感触があった。小さくて、冷たい手の感触は、荒んだ心をいつも癒してくれた。いじめっ子にいじめられた時も、必死にかけっこの練習をして倒れた時も、健常者よりずっと上手に木に登ろうとして怖くて降りられなくなった時も――――
「(俺はこの手を、知っている……)」
 ぱっと、暗闇が晴れた。
 まるでそれまでの出来事が夢だったみたいに、あっという間に世界が日常にまみれた。カップル達が拍手喝采する中、黒瀬は自分の手を見つめた。動かない、感覚のないはずの左手に、添えるように小さな手が置かれていて、碧い瞳のコーディが、じっとこちらを見上げていた。何か、言葉では言い尽くせない、膨大な思いがその瞳には描かれていて、思わず、息が詰まった。
「コーディ――お前」
「来ました」
 彼女が瞬きした。目の輝きはぬぐい去ったように消え去り、代わりに黄金色の光が目の奥で煌めいた。
「アウターホリックです」  
 深海に潜む人魚が身を翻したみたいに、彼女の瞳から、『思いの影』が消えた。手を伸ばせば間にあったかも知れないのに――なぜかそんな、後悔の念がふっとわき上がった。
「デートは中止ですね」
「あ……あぁ、うん」
「彼女には伝えておきます」
 何か言おうと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。よしんば何か言ったとして、意味のある言葉が返ってくるとは思えなかった。
「インサート」
 世界が暗転する。







↓おもしろいと思ったら、クリック↓

Copyright 2012 All rights reserved.