「W.makerって人が、君の事メールで教えてくれたの」
spring――こと、桜木 日和はそう答えた。
病院の屋上は最近の建造物には珍しく、屋上に対空砲が設置されていない。代わりに自家発電用のソーラーパネルが、凍り付いた湖面が整然と区分けされているみたいにならんでいる。その間を縫うように張り巡らされたワイヤーに、真っ白なシーツが鳥の群れのようにはためいていた。
それを眺めるように、springこと日和は手すりにもたれ掛かって春風に揺れる金髪をかきあげていた。正面に立った黒瀬は、彼女をじっと見つめている。
胸が、高鳴っている。
「妹さんには、君が来たら連絡してって伝えてあったんだ。絶対に来ないって言ってたけど……結局、来たね」
微笑む彼女は黒瀬の表情を見るとばつの悪そうな顔をして
「そんなににらまないでよ。今日はほら、チェーンソー持ってないでしょ?」
おどけて両手を開いて見せる。黒瀬は何を言ったものかわからず、ひたすら閉口した。表情は憮然としていたが、内心は荒海のように乱れきっている。どういう目的で来たのかわからないし、アウターワールドでのあの狂ったような彼女の姿と今目の当たりにしている彼女のギャップには戸惑うしかないし、再び耳にしたW.makerの名も気になる。疑念と困惑の固まりを顔面から思いっきり叩きつけられたみたいだった。
「……イジェクター、なんだよね」
日和は肩をすくめてそう言った。
「よくわかんない人から来たメールだけで信用するなんて自分でもおかしいと思う。でも、なんていうかな、やっぱり会ってみたかったんだよね。私の顔をさ、ほら、綺麗に吹き飛ばしてくれた人に」
彼女は随分――――なんというか、すっきりしていた。あのアウターワールドで見た彼女は凄惨で苦悩に満ちた感情で整った顔立ちを歪ませていたが、今目の前に立つ彼女は、表情も、肢体も、翼でも生えたみたいに自由で、楽しそうだった。
「ごめんね、ゲームの事。記憶がないわけじゃないんだ、君にやっちゃった事。私の、ぐちゃぐちゃな所、本当の部分、ここをね、全部見せちゃった事」
彼女は胸を指してそう言うと、ふっとゆるみきった笑みを浮かべた。時折広告で目にした彼女の笑顔と、今手すりにもたれ掛かった彼女が空を仰ぎ見て浮かべる笑顔は、別人みたいに違う。その笑顔を見ていると、じわ、と嫌な感覚が胸の内に広がった。いつだったか、自室の窓からのぞき見た、女子高生達の晴れやかな笑顔と、彼女の表情が重なっていた。
ソーラーパネルの影に立ち尽くしていた黒瀬は、眩しい陽光と、それを浴びる彼女から、一歩後ずさりした。パネルが作った色濃い影の中に、身を沈ませる。じわじわと胸の内を飲み込もうとしていた薄暗い疼きが、それで少しは引いたような気がした。
「色々、溜まってたんだ――この仕事って、自分をさ、化粧するみたいに偽らなきゃいけないから。べったべったにね、化粧しなきゃいけないの。それこそ、私を嘘で補ってるのか、嘘を私が補ってるのか、わかんないくらいに」
彼女は自分の頬に手をやると、ふに、と頬を掴んで引っ張った。
「……でも、この顔を綺麗さっぱり吹き飛ばされた時、なんか、どうでもいいやって思えたんだ。あーあ、今まで水の中潜ってたみたい。この空も、前とは全然違って見える」
その仕草はきょとんとした猫のよう。初対面の人間に見られている事にもまったく頓着していなくて、あけすけだった。病室に来た時のいたずらっぽい表情といい、彼女は自分の感情にまっさらに素直なようだった。
何かを反芻するみたいに、彼女は空を見つめ続け、しばらくの後、うん、と頷いて、こちらに目を向けた。何か言おうと口を開いて、それから少しためらってから、はにかんで、
「ありがと」
黒瀬は閉口した。
晴れやかな笑顔を向ける彼女。黒瀬は深くかぶったフードの影から、白い陽光を受けて眩しい彼女の笑顔を見つめる。戸惑いがあった。彼女は一体――――誰だ? ユビキタスや街頭ディスプレイ、テレフィルムで見るspringとは違う。アイドルのspringではない。では彼女自身が言うとおり一般人の桜木日和なのか――――いや、普段の彼女など知りもしないが、たぶん、違うと思う。
あの、アウターワールドでのぞき込んだ、彼女の瞳。
あの瞳の奥で揺れる感傷的な色合いが、彼女からはすっかり抜け落ちていた。あるのは、この屋上の空を覆っている快晴の空のような色合いだけだ。
「……おーい」
springは黒瀬の顔をのぞき込み、鼻先で手を振って見せた。黒瀬はじっと、のっぺりとした黒目を彼女に向ける。
――――礼を言われる筋合いなどない。自分はただ、舞い込んできた災難を振り払っただけだ。やめて欲しいと思った。その笑顔、やめて欲しい。何かを振り払ったかのような彼女の明け透けな笑顔が、胸にちくちくと刺さった。
「……W.makerって誰なんだ?」
黒瀬はようやくそれだけ尋ねた。反応があったのがうれしいのか、ぱっと表情を明るくして
「え? ううん。全然知らない! メールが来ただけで知り合いとかじゃないの。気になる?」
もしそうなら、この話をいっぱいにふくらまして、届けてあげる――――生き生きした表情が迫ってきた。黒瀬は戸惑ってばかりだ。思わずそっぽを向いた顔を、日和は興味深げにのぞきむ。「ふーん」にやりと笑って
「思ったより、かわいい奴だったんだな。君は」
……なんなんだ、この女。
彼女は世界的(と吹聴されている)アイドルであり皆のあこがれの的、つまりは昼の世界に燦然と輝く太陽であって、自分のような陰の世界の住人とはあまりに存在がかけ離れているはずだった――――離れすぎて、もはや別の生き物に思える程。
彼女が真っ白な光を浴びながら、次第に黒瀬が潜むソーラーパネルの影に歩み寄ってくる。
「俺はイジェクターなんかじゃない」
思った以上に頑なな声が出た。彼女の足を止めるには十分なくらいの。微かに右手が震えている。思わず握りしめた。くそ、と思った。朝、家を出る時には震えなかったのに。
日和に目を向けると、彼女は父親に突然ひっぱたかれたような表情をしていた。滑稽にも見えたし、見るに忍びないくらい痛ましい姿にも見えた。黒瀬が吐いた言葉の中から、何か、鋭角の意味を拾い取ったようだった。表情を少し歪めて、取り繕うように笑顔を浮かべてから、不意に顔を伏せた。彼女が落とした視線の先には、黒瀬が潜む暗闇と、目が眩むくらい真っ白な照り返しの、境界線が引かれていた。彼女のつま先はぎりぎり照り返しの世界にとどまっていた。それを見た黒瀬は、どこからわき出たのかわからない、得体の知れない安堵のため息を微かに漏らした。
「……別に、もう、君がイジェクターじゃなくてもいいんだ」
顔を上げた彼女は、ほんの少し力の抜けた、作り物じゃない笑顔を浮かべて、
「だって、誰もアウターワールドを救うヒーローの本当の名前を知らないって事は、彼は正体をばらしたくないって事だもんね。私に秘密がたくさんあったように、彼にも秘密にしたい事がたくさんあるんだ。いいよ。もう、深くは訊かない」
その代わり、と彼女は一瞬だけ言いよどんだ。
「デートして」
黒瀬のこめかみを、ひとしずく汗が滴る。彼女はすらりとしなやかな手をさしのべた。その動きは流れるようにごく自然で、彼女の指先がポケットに突っ込んだ自分の左腕に触れるまで、黒瀬はその動きに気がつかなかった。
その瞬間、突然思い出したのだ。
自分の左腕が、役立たずの木偶の坊って事に。
「あっ」
彼女が小さく上げた戸惑いの声を背にして、伸ばされた手を振り払った黒瀬は、駆けだした。
『な、なぜ逃げるんです』
気がつくと病院の廊下を息を荒くして駆けていた。ずっと静観を決め込んでいたコーディが宙を飛んで併走する。ずるい、と思った。あまりにがむしゃらに走ったので酸素不足に陥った脳がガキっぽい思考で叫ぶ。ずるい。何がずるいのかわからないが、とにかく今更出てきてどうして逃げるのかなんて当たり前のように質問する彼女が、とてつもなくずるいと感じた。
結局二時間近くは走りっぱなしで家まで帰ってきてしまった。途中からはランニングハイで何も考えられなかったし、そうなる事を望んでひたすら駆けていた。屋敷の武道場に倒れ込んだ時には、日は既に沈みかけていた。
薄暗がりの中で、ひたすら天井を見上げていた。自分の醜態について少しでもモノを考えるのは恐ろしくてできなかった。
「……彼女には何か他意があったわけじゃないと思います」
いつものトレンチコートにプリーツスカート姿の彼女が宙から降りてきて、黒瀬の傍らにへたり込むように座った。
「アウターホリッカーは本人の無意識が引き起こした自殺です。それは現実の苦痛や苦悩が要因で、イジェクトとはそれを擬似的に取り払う儀式的な側面を備えています。彼女は自分の苦痛や苦悩を取り払ってくれたあなたに何か特別な感情を抱いていたんだと思います。感謝とか、そう言った感情を」
「いきなり来られても」
黒瀬は自分の目を腕で覆っていう。
「どうすればいいかなんてわからない。おかしいだろ、そんなの」
自分では冷静な自己分析だと思っていたが、口に出してみると酷く幼稚で道理の通らない言い分だった。恥ずかしくて、かっと頬が熱くなる。
「……これは計算ではなく、あくまで人間的なインパルスを元にして導き出した、私の勝手な憶測ですが」
彼女は一呼吸分くらい言いよどんだみたいな沈黙を経て、
「あなたは彼女を拒否したのではなく――――自分を恐れているのでは?」
そんなワケないだろ!!
黒瀬は口から飛び出そうになった言葉をなんとか飲み込んだ。そのまま沈黙を続けた。たぶん、彼女の指摘は正しい。多分に正しい。日和に手をさしのべられた時に生じた感情は、舞台に突き出された役者の心境のようなものだ。高揚感と、恐れ。期待と恥らい。思い出すと、手が震える。日照と影のコントラストが、目に焼き付いて離れない。あの手を取っていたのなら、自分が身を潜めていた陰の世界から、抜け出せたのだろうか。
彼女が自分に関心を抱いてくれのは、とてもうれしかったのだ。引きこもりには身に余る光栄だ。久しく感じた事がない、人と関わり合う感覚。アウターワールドで見た彼女の瞳の奥には、自分と同じ"恐れ"が見えたのだ。同類だと思った。いや、それ以上に――――彼女が姿を表した時、友人になれるとすら思った。まるで、天から光が差し込んだように。
だが、それは酷い勘違いだった。
あの、屋上で見た彼女の姿。あの瞳、曇りのない、怯えもない、瞳。あの目はまるで別人だった。自分とはまったく違う、"振り切った"目だった。一体何が彼女をそうさせたのかわからない。だが、あの目を見た時、凄まじい恐怖心が自分の胸から吹き出した。
自分の不自由な手足や、それが原因で歪んだ精神を晒して、彼女に拒絶されてしまうのを恐れた。逃げ出したのはそういう理由なのだ。あまりの醜悪さと、どうしようもなさに、鼻の奥がつんとした。あ、泣くのか。情けない。奥歯をかみしめる。
「無理だよ。あの手は、取れない。springは、昼の世界の住人なんだから。俺は、こうして、光の当たらない世界で、黙り込んでいるしか生き方を知らない奴なんだから」
ほんの少し、外の世界へと上向いてきていた自分の気持ちを、急に恥ずかしいと思うようになった。身の程知らず、夢を見すぎた大馬鹿野郎。愚かな自分を、押しつぶしてしまいたい。
コーディは黒瀬の腕を掴んで、その顔をのぞき込もうとした。彼女が自分に触れられる事に驚く。おそらくは感覚器官や随意神経をいじくって擬似的な感覚をでっち上げているのだろう。手を振り払おうとしたが、体は意思に反して、彼女に顔をさらした。
「つまりあなたは」
自分がどういう顔をしているのか想像もしたくなかった。彼女は眉一つ変えず、その表情を見つめている。
「知りたいわけですね。『昼の世界』の生き方を」
きっと、彼女は自分の感覚をはっきりと感じ取っている。そうでなかったから、この意味不明な短いやりとりで、こんなにも的確な台詞を吐けるわけながないし、無表情なのにとても感傷的なこんな複雑な物言いが出来るはずがない。
「イジェクター、あなたの外の世界に対する恐れを、ほんの少し軽減するお手伝いをします」
彼女の瞳がかしゃかしゃと切り替わって、削り出す前のダイヤの原石みたいな微かな光を宿したエメラルド色に変わった。
彼女の手が、ポケットに突っ込んだ黒瀬の動かない左腕に触れた。思わず右手で振り払おうとしたが、彼女の大して力もこもっていないような細い腕に制されて動かなかった。見ると、彼女は足を崩して、物思いにふけっているように黒瀬の左腕に視線を落としていた。暗い部屋の中で、彼女の煌めく瞳だけが、静かに律動している。彼女が落とした左手の人差し指が、黒瀬の腕を撫ぜた。人の指の腹って、こんなに滑らかなのかと驚いた。微かな温もり、微かな香り。不意に彼女の指が一点で止まる。薄ぼんやりとしていたその指先が、水面に差し込まれるように腕の中に潜った。びくり、と腕が震えた。引きつるように、手のひらが開いて、五指ががくがくと痙攣する。一瞬恐怖が滲んだが、痛みも、熱もなくて、まるで心地よい水が流れ込んできたような感覚が腕に広がっていく。彼女の左手は、次第に黒瀬の腕に沈んでいき、彼女の肘までに至ると、そこで止まった。
不思議な感覚だった。今まで、邪魔な付属品としか思っていなかった腕に、清涼な温もりと、鼓動が宿っている。それは自分の鼓動とよく似ていたが、決定的なところが違った。もっと微かで、控えめなで、温かい血が通っている。それが左腕に宿っている。自分の意思と、誰かの意思がない交ぜになったような感覚で、ゆっくりと腕が持ち上がった。腕が眼前に至ると、見せつけるように手首を回したり、握り拳を作ったりした。
「(なんだ……)」
胸中に、得体の知れない感情がわき起こった。強烈な既視感。行ったことのない場所に郷愁を抱くような、胸が酷く締め付けられる感覚。なぜだろう、この腕に誰かが宿っている感覚が、懐かしくて、なぜか涙が出そうなくらい、心の琴線に爪を立てる。
「お腹――」
彼女はそう言って、少し言いよどんだ。得体の知れない感情と感覚に思いをはせていた黒瀬は。思わず「え?」と聞き返した。
「――――お腹、すいてますよね」
何を言い出したんだ、こいつ。そう思った矢先、朝から何も食べていないのを思い出す。腹が鳴った。
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